ハギ の山 6 月 2 週
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○自由な題名
○私の夜(よる)、カタツムリを見つけたこと
○雨の日、スリルがあったこと

★「ガッツがある」とか(感)
 【1】「ガッツがある」とか「根性が足りない」とかいった言葉をよく耳にしますが、私は、どうも好きになれません。そもそも〃guts〃なんて、「臓物」という意味だし、この言葉の音が汚いのも、嫌いな理由の一つです。【2】根性も、本来の仏教語では、「草木の根にたとえられる人間の性質」のことですが、現在では違った意味に使われるので嫌な言葉の一つになりました。
 ものごとを一所懸命にやることは本当に大切なことです。ただ、目を血走らせ、ムキになった、むきだしの表情を、私は好まないのです。【3】闘志は表面に出さず、内に秘めておくもの、これが私の美意識だからです。
 「一心不乱」はすばらしいのですが、「盲目的ないちず」が困るのです。いつも「主人公」が目覚めていなくては、お話になりません。そのためにも、そこに「遊び」が必要ではないでしょうか。【4】つまり、余裕です。「遊び」には、大事な意味がいくつかあります。たとえば、肝心なのは、「自分のしたいこと」を「楽しむこと」です。いわば、自分の好きなことをして「楽しむ」のです。それに、「機械の遊び」という場合の「遊び」のような「余裕」「余地」、「遊びの時間」のような「ひま」が大切です。
 【5】自動車のハンドルにも、「遊び」があります。あの遊びがなかったら、ずいぶん運転しにくくなるでしょうし、第一、危険です。ハンドルに遊びがあるので、少しばかり手がすべっても、急に変な方向へ曲がらないですむのです。【6】人生という車にも、この「余裕」「ひま」という遊びがないと危険です。
 子供たちの天職は、遊ぶことです。たっぷり遊ぶのが役目です。しかし、部活だの、塾通いだの、受験勉強だの、すべて強制、半強制のわくの中で、せかせかした生活をしています。【7】小学校、中学校、高等学校を、このように過ごさざるを得なかった学生たちを見ていると、私は、一大学教師として、もの悲しさで一杯になるのです。
 私どものところでは、学生たちは、二年に進むとき、自分の専攻したいコースを選びます。【8】その際、英米文学コースを志望す∵る学生たちを集めて、一人ずつ面接をします。そして、あれこれ質問するのですが、近年はますます幼稚さが目立ちます。大学へ入ったけれど、一体自分が何をしたいのか分からない。【9】英米文学コースに所属したいらしいが、何を学びたいわけでもない。文学をやりたいなどと言いながら、文学作品などほとんど読んだことがない。人生や、宗教や、友情や、人間の様々な側面に深い関心をもたずして、文学などと、まったく何をかいわんや、です。【0】
(中略)
 ものをおいしく食べるにはお腹をすかせたらいい。そうしたら、強制されなくても、誰だって自分から食べようとします。同様に、本来の人間に備わっている好奇心が働き出せば、自然に知識欲が湧いてきて、自然に勉強したくなります。そんな状態においてやるのが、本来の教育です。子供たちの、一人一人が持って生まれた「個性」、それを引き出してやるのが、教育者のはずです。しかしながら、無理やり、知識を頭の中へ詰め込まれた結果、人間本来の好奇心がすっかり消えてしまったのです。それも、感受性が最も強く、人間の心の勉強をするのに最も適している時期に、外から、よけいなもので一杯にされて、本来の好奇心の働く余地が、すっかりなくなってしまったのです。画一的に鋳型にはめられた結果、遊びの好奇心も、自由に働く想像力も、新しい発見の創造力も、みんな学歴主義に塗り込められてしまいました。
 想像力は心に必要な遊びです。心が本来の自由な姿に戻れば、人間の想像力が働き出します。この想像力の遊びもまた、心にとって栄養となります。想像は創造につながります。想像がさらに深まれば、「思いやり」となって、人間関係を創造するのです。