黄イバラ の山 7 月 4 週
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○自由な題名

★清書(せいしょ)


 ところが、七十四歳になった宇野さんは『幸福』を発表します。この作品は女流文学賞、芸術院賞を受賞しました。その後の宇野千代さんの活躍ぶりは、広く知られるところです。八十九歳では『生きて行く私』という自伝的作品を発表して、おおいに世間の耳目を集めました。そして、宇野さんは天寿をまっとうしたというにふさわしい人生を終えられたのでした。
 一度は書くことを断念した宇野さんが、どうしてこのようによみがえり、晩年を生き生きと書き続けることができたのか。そこには一つの出会いがありました。
 仲介する人があって、宇野さんは中村天風に会ったのです。そのとき、中村天風は八十八歳、宇野千代さんは六十八歳でした。
 初め、宇野さんはそんな老人に会っても仕方がないと思いました。ところが、会ってみると、中村天風は姿勢がきちんとしていて、非常に穏やかな雰囲気で、静かな声で話し、本当に感じがよかったわけです。それで、弟子にしてくれと言うのですが、中村天風は弟子といったことではなしに話をしましょうと言い、それから毎日のように訪ねていって、一時間ほど話をして帰るようになったのでした。
 あるとき、中村天風は「あなたはもう小説を書かないのですか」と聞きました。「書かないのではなく書けないのだ」と宇野さん。すると、「書けないと思っている間は書けませんよ」と中村天風は言います。そういうことをいつも話し合っていたのでした。
 中村天風は昭和四十三年、九十二歳で亡くなりました。宇野さんとは四年間のつきあいだったわけです。そのとき、宇野さんは「自分は書ける」という気に、自然になっていたそうです。中村天風から「書けないと思っているうちは書けない」という話を繰り返しきいているうちに、いつか「自分はもう書けないのだ」という気持ちが消えていたわけです。そのいきさつを宇野さんは『天風先生座談』という本に詳しく書いています。
 「自分はもう小説は書けない」と思い込んだままだったら、宇野千代さんの晩年のきらきらと輝く作品は決して生まれなかったでしょう。心の持ち方がいかに大きな作用を及ぼすかを、この例は示しています。
 私たちも自分の生き方を限界づけるような心の持ち方をしていないでしょうか。そのことに気づきたいものです。

 (月刊「致知」山下俊彦氏の文章より)