黄エニシダ の山 1 月 2 週
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○自由な題名
○新学期、冬休みの思い出


★松下電器産業では(感)
 松下電器産業では昭和四十一年に中米のコスタリカにラジオと乾電池を作る工場を建設、稼働させました。中南米と言えば、この間のペルーの日本大使公邸人質事件でもわかるように、政情不安な国がほとんどです。その中で当社がコスタリカに進出したのは、この国が例外的に安定していて、非常に平和なことが調査でわかったからです。
 工場には社長、ラジオと乾電池のそれぞれの責任者、それに経理の四名の日本人をメキシコから回しました。また販売会社も設立し、日本人を十人ほど派遣しました。工場生産が順調で、製品を輸出するまでになったのです。
 私は昭和五十五年に視察に訪れました。人びとは明るく仕事熱心で、気候も大変暮らしやすい、ずうっとこの国にいたい、と日本人は口々に言っていました。また、コスタリカ大統領からは、輸出産業が育ってありがたいと感謝されました。
 ところが、その二年後に事件が起こりました。コスタリカの販売会社の社長が出勤途中ゲリラに襲われ、車で拉致されたのです。その車が国境付近で警備隊と遭遇、銃撃戦になり、ゲリラは全員射殺されましたが、拉致された日本人社長も重傷を負いました。この事態を憂慮した大統領じきじきのお見舞いをいただき、アメリカの病院に移送する手配もしていただきました。しかしそのかいもなく、日本人社長は亡くなってしまいました。
 私は大統領からお手紙をいただきました。大変厳しく残念な事件だが、工場はコスタリカで重要な役目を果たしているので、日本に引き揚げるようなことはしないで欲しい、という内容でした。
 もちろん、私は工場の引き揚げは考えませんでしたが日本人は引き揚げなければならないだろうと思いました。というのは、その前にエルサルバドルで、やはり日本人社長が殺され、だが、ゲリラは身代金奪取の目的を遂げられず、さらに日本人の重役を誘拐する事件が起こっていたからです。コスタリカの当社の場合も、ゲリラは身代金奪取の目的を果たしていません。同じことが繰り返される恐れは十分にありました。
 私は工場の二名を一年間だけ残すことにして、全員の即時帰国を指示しました。あとはすべて現地の人に任せることにしたのです。
 ところが、どうでしょう。日本人が引き揚げてからの決算が非常にいいのです。私はにわかには信じられない気持ちで、メキシコの責任者を調査にやりました。すると、決算に間違いはない、すっかり変わって、非常によくなっているという報告です。
 日本人がいたころよく耳にした話は、コスタリカの人たちは言われたことをやるだけで、仕事を覚えようとしない、といったものでした。それがすっかり変わって、全従業員が前向きに仕事に取り組むようになったのです。好決算はその成果でした。
 日本人が引き揚げたあと、大統領が工場に出かけ、がんばれと従業員を励ましたことも一つの要因です。しかし、何よりも従業員自身が、自分たちがやらなければ、という気持ちになったことが決定的だったのです。
 信じて任せる――私はこのことの大切さを改めて教えられた思いでした。この教訓は徒(あだ)やおろそかにはできません。その陰には、犠牲になった一つの命の重みがあるのですから。

 (「致知」九七年七月号 山下俊彦氏の文章より)