00ウツギ の山 11 月 2 週
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★じゆうなだいめい
○お父さんやお母さんと遊んだこと
◎さむい日
○きりんのばんぺいさん
藤原道長は
 藤原道長は五番目の子だったので、父の位である摂政や関白を継ぐことができるとはだれも思っていませんでした。しかし、子供のころから負けず嫌いで、気が強く、また胆(きも)のすわったところのある道長は、のちに強運(きょううん)も手伝って、事実上、天皇以上の権力を持つ摂政・関白の位につき、全盛をきわめました。そして、ほこらしげに「この世をばわが世とぞ思う望月のかけたることもなしと思えば」(この世は私の世だと思うよ。今日の満月のように欠けているところがないと思えば)という歌をよみました。権力をほしいままにした道長は、莫大な財産を持っていたので、それを生かし、貴族の文化、平安文化をささえました。漢詩や和歌、絵巻物、そしてかな文字による文学は、この時代に大きく発展しました。紫式部の「源氏物語」や清少納言の「枕草子」などもこの時代の作品です。
 さて、子供のころの道長はどんなふうだったのでしょう。兄たちとともに父の前に呼ばれた時のことです。父兼家(かねいえ)は、できのよい公任(きんとう)という自分のいとこの息子を引き合いに出し、「お前たちは、公任(きんとう)のかげもふめんぞ」と叱咤激励しました。兄たちは、うなだれて聞いていましたが、道長だけは、「あいつの影なんか、たのまれてもふむもんか。私だったら、顔をふんづけてやる」と言ったそうです。なんという負けん気の強い性格でしょう。
 また、道長は十七歳の時、仕えていた天皇の発案で肝試し(きもだめ)をしました。雨のふりしきる真っ暗な夜、怖い話を聞いた後、天皇は、そこにいた三人にそれぞれ違う場所に一人でいってくるように言いました。他の二人はおそるおそる出かけたと思ったら、すぐに「ぶきみな声が聞こえた」とか「怪物が出た」などと叫びながら舞い戻ってきました。道長はと言うと、指示された大極殿(だいごくでん)という場所に一人で行き、証拠として柱の木を小刀でけずりとってきたのです。ま∵さか、一人で行けるまいと思った天皇が翌日調べさせてみると、削り取った木片はぴたりと柱のえぐれた部分に合いました。天皇はその勇気におどろきました。
 このように、積極的で怖いもの知らずの道長は、人生を前向きに生きるすべを幼いころから知っていたかのようです。だからこそ、強運(きょううん)を呼び込むことができたのでしょう。父の後を継いだ一番上の兄道隆は、関白になったものの伝染病で亡くなってしまいました。その兄の後を継いだ次の兄道兼(みちかね)もまた同じ伝染病で、関白になってたった一週間で命を落としました。時の天皇はそのあとの関白を決めるのに迷っていました。すると、天皇の母が、自分の弟でもある道長を強く推薦しました。
 出世する道は長いと思っていた道長でしたが、三十歳のころには政府の第一人者となっていました。「望月」の歌は道長が五十三歳のころに詠んだものです。

 言葉の森長文(ちょうぶん)作成委員会(φ)