a 長文 11.3週 yu
 このところ、ドストエフスキー、ファーブルなどと二十年以上も前に読んだものを、もう一度読み直して、なんとなくよい気分である。古典とは決して「古いもの」という意味ではない。永遠に新しいものを古典という。
 時代の流行を代表するような作品は次々にあらわれ、その時代にはたくさんの人に読まれるが、その多くは、いつの間にか消えていく。若いころ、たいそうおもしろく読んだ記憶きおくがあり、思い立って読み直してみると、つまらないものであったりする。同時代の作品は、目に映る風俗ふうぞくの親近感があるし、また古い作品でもなんとなくその時代によく受ける精神構造を持っていたりすると、一種の流行となることがあるが、時代が変わるとその多くは、あぶくのように消えてしまう。
 古典といえるものでも、ある時代には、なりをひそめているが、別の時代にはよみがえってもてはやされることがある。作家の気質が時代の気質によく合ったり、そぐわなかったりするからだ。育っていく子供に似て、時代には気質がむら気にあらわれるものだ。
 だが、いずれにしても人間とは矛盾むじゅんした感性を抱き合わせだ あ  に持っている複雑な生きものなので、一人の人間でも、ああも感じたり、こうも感じたり、破滅はめつを夢みたり、聖なる秩序ちつじょに情熱を傾けかたむ たりする。こういう人間の性質は、どうやら人間が生きのびる限り同じらしい。なぜなら、地上が災いも破壊はかいもない神の国となり、死というものが消えうせたとしたら、生まれいずるものもまたなくなり、それは人間の国ではなくなってしまうだろう。古典とはその最も人間的なものを、その時代の具体的な素材を用いて抽象ちゅうしょうの中に表現し得ているものである。
 古典に現代の生活では日常的でない素材が用いてあると、不思議なことなのだが、抽象ちゅうしょうの骨組がかえってはっきりと見えてくることがある。そして、それが、現在の日常性の中で混乱している思考をしゃっきりとさせてくれることがあるものだ。
 古典はわたしをいつもすがすがしい気分にする。そのすがすがしさを味わいたいばかりに、わたしは古典にふける。わたしはそれが古いという理由で古いものに特別興味があるわけではない。それが今も生きていて、生きているものがわたしに語りかけるから耳を傾けるかたむ  のだ。 (大庭みな子『大庭みな子全集第十巻』)
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