a 長文 12.3週 nu
 数年前のことになるが、わたしは米国人の言語学者T氏と東京で親しくなった。かれはもともとアメリカ・インディアンの言語を専門せんもんに研究していたが、終戦後の日本に軍人として駐留ちゅうりゅうしていたこともあって、最近では日本語の歴史や方言にも興味きょうみ示ししめ はじめ、遂につい 奥さんおく  と三人のむすめをつれて東京にやって来たのである。奥さんおく  はイタリアけいの人で、小学校の先生をしている。
 かれは古い日本家屋を一けん借り、たたみ座蒲団ざぶとん、冬は炬燵こたつ懐炉かいろ、そして三人のむすめを日本の学校に入れるという、一家あげての見事な日本式生活への適応てきおうぶりだった。
 ある日、アメリカの学者の習慣しゅうかんとして、かれは多くの言語学関係の友人、知人を家に招待しょうたいした。まずイタリア風のイカのおつまみなどで、カクテルを済ませす  た後、別室で夕飯ということになった。一同がにつくと、テーブルには肉料理やサラダなどが並べなら られ、面白いことに、白い御飯ごはんが日本のドンブリに盛りつけも   て出されたのである。
 たたみの上に座っすわ ていること、白い御飯ごはんであること、T氏たちが日本式生活を実行していることなどが重なり合って、一瞬いっしゅんわたしは、この御飯ごはんを主食にして、おかずを併せあわ て食べるのだという風に思ったらしい。目の前の肉の皿を取り上げて、となりの人に回そうとしかけた時、わたしはT夫人のかすかにとまどったような気配を感じた。
 間違っまちが たかなと思ったわたしは、御飯ごはんは肉と一緒いっしょに食べるのか、それとも御飯ごはんだけで食べるのかと尋ねるたず  と、夫人は笑いながら、まず御飯ごはんを食べて下さいと言う。
 わたしはその時、はっと気が付いた。この御飯ごはんは、イタリア料理ではマカロニやスパゲッティと同じくスープに相当する部分なのだと。
 はたして、それは油と香辛料こうしんりょうで料理した、一種のピラフのような
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ものだった。
 食事というものは、いろいろな条件じょうけん制約せいやくされた文化という構造こうぞう体の重要な部分である。何をいつ食べるか、それをどう食べるか、食べていけないものは何か、といったことに関して、どの国の食事にも、さまざまな制限せいげん規則きそく習慣しゅうかんとして存在そんざいする。
 カトリック教徒は金曜日には獣肉じゅうにくを食べないし、イスラム教徒は豚肉ぶたにく不浄ふじょうなものとして決して食べないというようなことはだれでも知っている有名な事実であろう。
 しかしこのように、何かを食べてはいけないという明示めいじ的な規則きそくは、外国人にも比較的ひかくてき判りわか やすい。ところが自分の国の食物と同じものが、外国の食事の中にありながら、その食物と他の食物との関係が、自国の食事の場合と違うちが という、つまり同一の食物の食事全体における価値かちが、文化によって異なること  ときに、難しいむずか  問題がおきるのである。
 白い米の御飯ごはんは、日本食の場合には、食事の始めから終わりまで食べられる。というよりは、米の飯だけを集中的に食べることは、むしろいけないこととされている。おかずから御飯ごはん御飯ごはんからおしると、あちこち飛び回らなければ、行儀ぎょうぎが良いとは言えないのである。
 そこで米の飯と他の食物との日本食における関係は、並列へいれつ的・同時的であると言えよう。おしるに始まり、香の物こう もの至るいた まで、米を食べてよいのである。
 ところが、食事の一段階だんかいごとに一品ずつの食物を片付けかたづ ていく、通時的展開てんかい方式の性格せいかくの強い食事文化もある。西洋諸国しょこくではこの傾向けいこうが強く、イタリアの食事も例外ではない。ここでは麺類めんるいや米の料理などは、ミネストラと称ししょう て、本格ほんかく的な肉料理が始まる前に済ませす  てしまうのだ。
 わたしがドンブリに盛らも れた白い御飯ごはんを見て、おかずも一緒いっしょに食べようと思った失敗は、日本の食事文化に存在そんざいするある項目こうもくを、別の
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長文 12.3週 nuのつづき
食事文化の中に見出したため、これを自分の文化に内在ないざいする構造こうぞうに従って したが  位置づけ、日本的な価値かち与えよあた  うとしたことが原因げんいんなのであった。
 文化の単位をなしている個々ここ項目こうもく(事物や行動)というものは、一つ一つが、他の項目こうもくから独立どくりつした、それ自体で完結した存在そんざいではなく、他のさまざまな項目こうもくとの間で、一種の引張りひっぱ 合い、押し合いお あ の対立をしながら、相対的に価値かちが決まっていくものなのである。
 自分の文化にある文化項目こうもく(たとえばある種の食物)が、他の文化の中に見出されたからといって、直ちにそれを同じものだと考えることが誤りあやま なのは、その項目こうもく価値かち(意味)を与えるあた  全体の構造こうぞうが、多くの場合違っちが ているからである。
 (中略ちゅうりゃく
 わたしたちが、外国語を学習するさいにも、いま述べの たような具合に、自国語の構造こうぞうを自分ではそれと気づかずに、まず対象に投影とうえいして理解りかいするという方法をとりやすい。従ってしたが  いろいろと食い違いく ちが が生じてくるのも当然である。

鈴木すずき孝夫たかお『ことばと文化』による)
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