1ある日、五つになる孫坊主からはがきがとどきました。文面は、「おようふく、ありがとう。そう」とただそれだけでしたが、この大小さまざまな十幾字かが、思い思いの方角をむいて、はがきからあふれ出そうに書かれていました。
2これは、誕生日のお祝いの洋服の礼状なのです。「そう」というのは、草一郎の「草」で、「草、そう」と呼ばれているところからこう書いたものと思われます。わたしは、それがうれしくてうれしくて、長いこと自分の書斎に画びょうでとめておいたものです。3ところで、考えてみると、手紙というものは、そうやさしいものではありません。どこがむずかしいかと申しますと、結局、手紙にはあて名があるからだと、わたしは思っています。もっとも、あて名のない手紙もあります。4印刷されたあいさつじょうや通知じょうの類がそれです。わたしたちは、この砂をかむようなあて名のない手紙もずいぶん読まされます。
この事務的な手紙の印刷をわたしたちもすることがあります。年賀じょうなどはもっともよい例でしょう。5これなどは、あて名のない手紙の代表的なものかもしれません。いま、この年賀じょうの余白に万年筆でほんの一行、「灘から例のが届いている。待っている」と書き添えたとしましょうか。6このふぬけなはがきが、たちまちにして生き生きと血が通いだすのがわかりましょう。つまりは、この一行で、あて名が書かれたからのことです。これはしかし、あて名と同時に差出人があるということでもあります。7受け取る側からすれば、差出人のない手紙などは一向にありがたくありません。歌や俳句の世界で、作者不在などとよく申しますが、手紙にもずいぶん筆者不在のものを見かけます。8商用文でも、客筋にあてたものばかりでなく、商店から商店に出すものにも、それなりの筆者もあて名もあるべきだとわたしは思っています。
今日の文章のおおかたは、印刷されるものとして書かれるとみてよいでしょう。9ところが、印刷されないということが前提で書かれる文章があります。日記と手紙です。この日記と手紙を比べてみると、大分ちがったところがあります。一つ二つひろってみると、日記は自分以外の人には見せないたてまえで書かれるのに、手紙は相手に見せることがたてまえで書かれます。0日記の方は、どんな
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