1「ああすれば、こうなる」型の社会では、さらに違った側面が現れる。その一つは、時間の変質である。頭の中では、時間は過去、現在、未来に三分割される。ところが、時間直線を描けばわかるように、「現在」とはその時間直線の上の一点に過ぎない。2それはただちに未来から過去へと繰り込まれる、時の瞬間に過ぎないのである。もちろん常識はそうはいわない。3なぜなら、われわれは現在とか今とかいう表現をたえず用い、しかもその「現在」という時は、実質的な時間幅を持つことが当然の前提だからである。それなら、そのように日常的に使われる「ただいま現在」の意味とはなにか。4それはすなわち、「予定された未来」を指すのである。「ああすれば、こうなる」で囲い込まれた時だ、と表現してもいい。具体的にいうなら、手帳に書かれた予定である。5来月の三日は、会社の創立記念日だから、これこれこういうことをする。それが決まれば、その日までに「どのような準備をするか」は決まってしまう。そのためには、今日、知り合いの店に電話をしておかなければならない。6当日には自分は会社を休むわけにはいかない。したがって地方への出張は、その日を避けることになる。こうして、来月の三日に予定があるということは、現在をすでに強く拘束する。そうした拘束された時、それをわれわれは現在と見なすのである。
7それなら未来とはなにか。本来の未来とは、なにが起こるかわからない「ああすれば、こうなる」で拘束されていない時間である。それなのに子どもが育ち始めると、母親はこの子をどの幼稚園に入れて、と考え出す。8その幼稚園が終わったら、どの小学校に、そのつぎにはどの中学から高校へ、どの大学のどの学部へ、と考える。こうして「漠然たる」未来は、現代社会ではただちに拘束され、急速に失われていく。9大人はそれでちっとも困らない。自分ではそう思っている。ただし、自分がどの段階でどれだけ年老い、どれだけの体力を失い、感覚がどれだけ鈍るか、それは手帳に書いてない。0さらにいつ、どういう病にかかり、その結果、いつ死ぬことになるか、やはり手帳には書いてないのである。考えてみれば、その手帳がすなわち意識である。意識という手帳は、そこに書かれていない予定を無視する。いかに無視しようと、しかし、来るべきものはかならず来る。意識はそれをできるだけ「意識しな
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