ひとこと(8月2週)
傀儡
アジサイの広場
ペー吉うき中2
 「自分の意見」を持っている人間というのが、少なくなっている気がする。
他人に合わせて、他人の意見に賛成し、他人の意見を引用する。その繰り返し
で物事が進み、それが終るころには結局何も進展していない。そんなことが多
いような気がする。
 
  学校で会議をしたときのことだ。その時、文化祭のプロジェクト係を決め
る会議をしていた。まず、立候補をとった。手は一つも挙がらなかった。つま
り、自分から進んで「やりたい」と思った人間は一人もいなかったということ
だ。その後に推薦をとった。すると、次々に賛成の声があがり、結局その人に
決まった。
 
  自分の意見がないばかりに、最初の意見に合わせたのだろう。自分がやら
なければ、それでかまわないということだ。しかもこの時、議長が、担任に言
われるまではどうやればいいか分からないでいたのだ。自分の意見がなく、他
人が糸を引いて行き先を示す操り人形である。
 
  タイトルは忘れたが、こんな民話がある。いつでも、他人に媚び諂って生
きていた男がいた。ある日、男は人形だらけの館に迷い込み、一晩を過ごした
。次の朝、男は人形になって転がっていたという。象徴的な話である。人形は
、人形師がいなければ動けない。人形は、人形師が作らなければ在りえない。
この男は人間ではなく、自由を売り払った人形になったのだ。
 
  しかし、自分の意見を述べてばかりでは、社会からは認められない。他人
の意見も聞かなければならないのだ。適度に他人の意見を聞き、自分の情報と
照合し、そのうえでもう一度判断を下す。それが、最良とは言えないまでも良
い生き方ではないだろうか。我々が望むのは、「無難な在り方」ではなく、「
よりよい生き方」であるはずだ。最近の人間は、糸を断ちきらなければいけな
いのではないだろうか。もちろん、他人とのつながりの糸まで断ち切ってはい
けない。純粋に、「束縛」と「支配」の糸を断ちきるべきだと思うのだ。『自
由とは、自分の思い通りにすることではない』という言葉もある。他人との関
わり、ある程度の我慢は必要だと思う。自分の意見を通すことではなく、妥協
という考え方も必要だろう。そのことを踏まえた上で、我々は人になるべきで
はないのだろうか。