ひとこと(7月3週)
イチゴの広場
智之すら高3
 かつて庭は活動的な共同生活が営まれた集団全体の広場だった。やがて歴史
が進み、階級制度が現れ始めると貴族たちが集まって政治、儀式を行い、スポ
ーツやもよおしものなどを楽しむようになった。そして「庭」というのは一般
庶民からは、閉ざされたものになっていった。平安朝の寝殿南面の庭園という
のは寝殿から眺める美観として、池を掘り中の島を築き、石を組み、滝を落と
して遠景を整ていた。やがて禅宗の影響もあり、庭園は静かに眺めるだけのも
のになっていった。
 
  私の家の近くに週1回しか開かない公園がある。何故それだけしか開かな
いのかといろいろな人に聞いたが、いまだにもっともらしい回答は返ってこな
い。元々公園というのはその地域の人の交流や自由に遊び、楽しむために作ら
れたものではないのか。それが今では芝生が傷むからとか木が折れるからなど
の理由で、いろいろな所が立ち入り禁止になっているではないか。ただ見るた
めにこの場所を造ったのかといいたくなる。
 
  建物を外から見るだけではなく、中に入ってからこそ見えないものが見え
るのではないのか。西洋の公園では、あらゆる層の人々がそれぞれ楽しく利用
している。本を読み、ボールで遊び、昼寝をしたりして楽しく暮らしている。
我々がいつも見ている公園は、道路の延長線上のようだが、西洋では、親しい
みんなの庭なのだ。
 
  庭園は、それ自体が造形された空間です。眺めると同時に触れるものであ
り、自然でありまた反自然でもあるわけです。大切なのは庭園ではなく、自然
との一体化なのではと思う。