ひとこと(7月2週)
私が、文章を
アジサイの広場
乱月あし高3
 生徒を「怒る」のは至って簡単だが、はっきりとした自覚と誇りを持って「
叱る」のは教師にとっても言語生活の訓練と充実が前提となる。キョウシノ知
識だけに頼っていても、教師の言語感覚、言葉遣いの好みだけに頼っていても
いけないのが国語教育のはずだから、「叱る」以上は、教師にも覚悟がいる。
そのことを通じ、教えられて学ぶことの大事を、教師はこれまた、自覚と誇り
を持って教えて良いはずだ。
 
  「叱る」ことを知らないで育ち、「怒る」ことすらできない教師のもとで
育った生徒が、何の決断力もなくただ目先の利益にのみ踊らされている、とい
う事実。このことは早急に対処しなければならない問題だ。今日の生徒たちは
将来的に大蔵省の官僚のようになり兼ねない。実際彼らはそういう教育の賜物
なのだ。
 
  目先の事実というのは甘んじるにはとても楽なものだ。しかし教育におけ
る態度の中にそんな事はあってはならない。そのためにはまず、教師が心を入
れ替えることだろう。まさに親の背中を見て子は育つのだ。私の父もただ甘い
だけの人間である。しかし兄が反比例して厳しいので、そういう点で私は恵ま
れている。もっともそのために受ける心労も甚だしいが。
 
  また、「叱る」ことの意義をもっと把握するべきだろう。ただ闇雲に怒鳴
ることが本当にその人のためになる訳ではない。その人の今後にどういう影響
を及ぼすか、ということまで考えなければならないのだ。浦島太郎にも、『こ
のつづらをあけたら今までの時間がいっぺんに経過してしまいますよ』と教え
るべきだった。開けるなと言われただけでは誰でも開けたくなるものだ。
 
  確かに言うことに説得力を持たせるためには、感情的になることも大切だ
。しかしその後始末に、ちゃんと謝るとかそれなりの対処が必要だ。今日の教
育の場にもそのようなことが大切なのだ。鶴の一声にはまるで感情がこもって
いないようなイメージがあるが、計算ずくだからこそできる芸当なのだろう。
 
  適度な感情を込めた一声だけで生徒は変わってい