ひとこと(7月2週)
成長すること
アジサイの広場
加奈子せて高2
 文章は、決して謙虚な気持ちで書くものではない。勢いや、自信を持って書
くものである。私たちは文章を書く時、反省と訓練、謙虚さと、自惚れ、それ
らのどれもが欠けては行けないと思っている。しかし、私たちのように経験の
浅いうちはどうしても自惚れが先行してしまう。そういう人に対して、あえて
苦言を呈し、叱ってくださった方々を省みてありがたく思う気持ちは強くなる
。表現の自由が認められている国は有難い。しかし、本当の自由を持っている
者は、不自由を経験している者だろう。まともに人格も備わっていないうちか
ら、ひとかどの人格扱いをするのが、果たしていいことなのか?一人の人間を
駄目にしてしまうのはとても簡単なことのように、国を滅ぼすのは武力だけで
はなく、教育の大事ということを切実に思う機会が増えている。
 
  私が通っている高校には、人の悪い点を目ざとく見つけて注意する先生が
いる。卒業した先輩の手紙に、「今考えると、通っていた時はとても嫌だった
けれど卒業した今は、逆に有難かったかもしれない。卒業した時に分かるよ。
」と、書かれてあった。その当時は嫌でも、後から省みてみるとありがたく思
えるんだなと思った。
 
  モーツァルトは、小さい頃、親の訓練が厳しかったため将来立派な作曲家
として活躍することができた。という伝記があるが、何もアドバイスもしない
し、叱りもしない親よりは、厳しく指導した親の方が子供は成長する。
 
  現代の社会問題に、叱らなくなった父親というのがある。私の家の親は、
現代の社会問題とは違って結構厳しい。しかし友達のうちでは、「家のお父さん
はぜんぜん何も言わないよ。」といっていた。私は、その時いい親だなと思っ
た。たしかに、友達の家の親はいいなとその時思っても、それはその時だけの
話だ。しかし、よく考えてみるとぜんぜん何も言わない親よりは、いろいろな
注意をしてくれる親の方が自分達のためになると思う。「井戸の中の蛙、大海を
知らず」ということわざがあるが、井戸の中だけにいて楽をしていては世間の
ことを何も知ることができない。苦い体験を生かして成長していくべきだ。