ひとこと(6月3週)
安定は停滞でなく
イチゴの広場
ペー吉うき中2
 
 話し言葉は、漢字を問題としないため、意味がとかく変化しがちである。し
かし、一方で言葉の正しさを論ずる時に、とかく語源が引き合いに出されるが
、語源の通りでは社会状勢の変化のために合わなくなる事が多い。結局、言葉
は各人の言語意識によって動いて行くのだ。
 
 私は、言語は変えない方がいいと思う。現在の使い方で十分意味が通じてい
るのだから、いまさら変える必要もないだろう。第一、社会状勢が変化するた
びにころころ言葉を変えていては、混乱してしまう。学校で教わったことが、
次の日にはもう間違いになっているかもしれないのだ。「下駄箱」という言葉
がある。現在は下駄など履いている人はいない。だが、それでも十分意味は通
じている。「下駄箱」といえば、それは外履きをいれるロッカーのことなのだ
 
 だが、その一方で「変えていったほうがいい」という意見もあるだろう。確
かに筆を入れていないのに「筆箱」は妙な使い方だ。それに「しようがない」よ
りも、耳に入ってきた感覚をそのまま書いた、「しょうがない」の方がわかり
やすいだろう。長い言葉は略して使いたいし、意味の通じなくなる言葉は変え
ていきたくなるだろう。例えば、「全然」という言葉だ。これは本来、「全然
できていない」「全然動かない」などの、否定を強調するための言葉であった
。しかし、現在は「全然いいね」「全然OKだよ」などの、単に単語を強調する
ためのものとして使われている。だが、これでも一応意味は通じているし、こ
の使い方は非常に日常的なものになっている。
 
 しかし、言語をいちいち変えていくのは、冒頭で述べた通り大変な苦労を伴
う。「全然」は既に意識の底に浸透してしまっているが、さまざまな言語を次
々に変えていくと、例えば、教育機関が機能しなくなってしまう危険性がある
のだ。「もともと地上に、道は無い。歩く人が多くなれば、それが道になる」
という言葉がある。今まで人間が歩んできた「道」。これをわざわざ曲げるこ
とはないのではないか。意味が通じているのならば、いちいち言語を変える必
要性は感じない。私は、安定した環境が一番だと思っている。現代のように、
何事にも急ぎすぎている状況は苦手だ。安定は停滞でなく、通りすぎようとし
たことの意味を見つけるための「思考のための余裕であり猶予」であると、私
は思っている。腰を落ち着けて、物事を見据えるという感覚を養ってもらいた
い。