ひとこと(6月2週)
地域社会
アジサイの広場
武照あよ高1
 
 現在自然災害などの影響もあったのだろうか、地域社会化が急速に行われて
いる。中央国家の機能が多岐に渡りすぎたため中央国家の権力を地域に肩代わ
りさせ、地域の問題は地域で解決しろということらしい。しかし例えば学校で
先生が「なにをやってもかまいませんよ。何も言いませんから。」などと言っ
たら果たして学校が成り立つであろうか。中央国家の権力が地域に及ばなくな
った時、日本が地域を単位とした分権国家になってしまうのではないかと私は
密かに心配している。日本に地域という多くの「国」ができた時その住民が日
本という単位で物を見られるかはなはだ疑問である。たしかに極端な話ではあ
るが個人の権限が強くなっている現在「ホテル家族」というように家族が崩壊
しかけていることは権力の細分化が一つの共同体を崩壊させ得ることの一つの
表われではないかと思う。地域社会化が進んでいる現在、「交わり」を大切に
する社会を目指していくべきであると思う。
 
 それにはやはり相互理解が基準となるであろう。アリのところに冬になって
食料を貯えておかなかったキリギリスが助けを求めてやってきた時、自分達の
ことは自分達で処理しろと言ってキリギリスを追い払うことが本当に平和と言
えるであろうか。労働と芸術というまったく違う価値観に基づいた社会であっ
てもアリがキリギリスに食料を与える変わりにキリギリスがアリに音楽を聴か
せる、このような助け合いの関係が二つの社会の交わりを作るであろう。
 
 しかし現在の社会は自分と言うものを閉ざしがちである。それは村意識と呼
ばれたり、島国根性と呼ばれたりしている。その点で理想郷となっているのが
都会であろう。隣りの家のことはほとんど気にせずに良いし噂が広がってしま
うこともないという煩わしさも無い。そのような日本人が地域を単位とした社
会を作る時はたして自分以外の地域社会との交わりを作っていけるのかと言え
ばはなはだ危ないであろう。
 
 確かに現在の企業の力や中央国家の力を見れば地域の力を強くしていくこと
は意味のあることであろう。しかし「権力を与えますから、自分達の問題は自
分達で解決してください」という少々無責任とも言える地域社会化は、地域社
会にあってしかるべき「交わり」が逆に崩壊するという結果を招く可能性があ
るのではないだろうか。
 
 「交わり」が生きている社会と言うのは大は国家間の相互理解、小は人間同
士の心のふれあいを大切にする社会ではないかと思う。井の中であっても大海
を知るかわずであることが地域社会化が進めば進むほど大切になってくるであ
ろう。