ひとこと(5月2週)
「私は長いこと」を読んで
イチゴの広場
幸裕あつ高3
 
 人間として成長するためには、絶えず現在の自分の生き方を恥じることが必
要であろう。自らを恥じるとは、自らを客観視する別の目を持ち得ることであ
る。現在の環境に埋没することなく、つまり現在の職業や地位に腰を据えてし
まうこと無しに、自分の新たな可能性を絶えず開拓しようとすることがもっと
も基本的な要件であろう。もし、いささかでも自己完成者としての意識が残っ
ていたら、その人はすでに救済者たる資格はない。しかし、この痛切なジレン
マを乗り越えるための苦悩を知らぬ説法者が、今は余りにも多い。私は将来、
謙虚さを知らぬ人がますます増えるであろうと思う。
 
 このような事態を防ぐためには、第一に人に教える職業にある人でも何か教
わる機会を作ることだと思う。人に教える立場にいつもいるとつい見下しがち
になってしまうと思うので、たまに教わるという立場を経験することによって
教えられる立場を理解できれば教わる立場にある人を見下すということはなく
なるのではないだろうか。
 
 第二に相手の立場でものを考えることである。明治時代、日本は他の先進国
に追いつこうと必死で欧米の技術や文化を取り入れた。結果的に日本は先進国
の仲間入りをすることができたのだが世界にはまだまだ明治時代の日本のよう
な国々がたくさんある。今度は日本のほうが技術や文化を発展途上の国々に教
える側にある。この時日本が相手を見下したような態度で教えていたら教えら
れる側にあっても教えてもらうことに対して敬う気持ちはなくなるだろう。
 
 毎日新聞の調査によると神や仏の存在を信じる人が51%と約半分である。
昔の江戸時代ぐらいの日本ならほとんどの人が神や仏の存在を信じていたと思
う。昔は駆け込み寺という言葉があるようにお坊さんはとても頼りにされてい
たと思う。とんちの一休の話のようにお坊さんを頼りにしているという人はそ
の頃たくさんいたのではないか。
 
 慌てる乞食は貰いが少ないという言葉があるように常に謙虚であればよい思
いをすることも多いと思う。しかし謙虚さが失われている現在では高慢な教職
者は貰いが少ないである。
 
 この先謙虚さが失われつづけたら誰もが自己主張をする喧燥な世の中になる
のではないか。
 
 例えば座席を譲り合えばお互いに気持ちよく一日を終えることができるであ
ろう。