ひとこと(5月2週)
『私たちが日常』を読んで
イチゴの広場
ペー吉うき中2
 
 私たちが言葉を使っている時、言葉は内容を運ぶための手段として使われる
。しかし、言葉には詩的な働きというものがある。新しい経験を言葉で表すの
でなく、言葉が新しい経験を生み出す。詩人と呼ばれる人たちは、日常を越え
る経験を持つ。それを表すために、日常の言葉の枠を超えた言葉を使うのだ。
 
 私は、言葉の詩的な働きというのは大切だと思う。例えば、駄洒落があると
する。授業中に先生が、くだらない駄洒落をとばしたとしよう。それは実用的
な側面としては無意味だが、その詩的な言葉によって、話の雰囲気が適度に楽
しくなり、余裕も出てくる。第一、理屈ばかりでは疲れてしまう。相対性理論
で有名なアインシュタインは新婚初夜に、奥さんに延々と宇宙の神秘について
語り明かして、彼女を腐らせたそうだ。
 
 しかし、実用的な働きというのも、同様に大切であると思うのだ。言葉がす
べて詩的なものでは、会話そのものが成立しない。「実は猫が寝込んでさー」
「なに?なんかの病気なのか!?」「いや、そうじゃなくて」なら何を話した
いのだお前は、ということになる。適度に意味が運ばれなければ、詩的な言葉
もつぶれてしまうのだ。例えば、私の友人Tは、一度非常にウケた駄洒落を言
った。それに自惚れたのか、一日ほとんど駄洒落で会話していたことがある。
最後には既に意味が取れなくなり、飽きてきていた。夕方の五時ごろ、「…も
うやめなよ」と忠告したら、やっと止まってくれた。言葉は、意味が取れなく
なれば、意思伝達の手段としては使い物にならない。
 
 だが、一番大事なのは実用的に話すか、詩的に言葉を使うかではなく、両方
のバランスをとることだ。その意味で、我々はもっと詩的な言葉を使うべきだ
と思う。今の我々は、言葉を実用的に使うほうに大変偏っている。「雑草とは
まだその美点が発見されていない植物のことである」という言葉がある。詩的
な言葉の美点は、まだ一部の人間にしか「発見」されていない。詩的な言葉の
使い方を、雑草で終わらせてはいけないと、私は思う。