ひとこと
テクノロジー科学
アジサイの広場
乱月あし高2
 
 テクノロジー科学は17世紀に登場した近代国家の中に受容された。当時は
、神を中心として世間の考え方が成り立っていた。その中で、その理論の根本
的なところには触れずに、今ある現象だけを研究するその考え方はとても新鮮
なものだった。その考えは、イタリアのニッコロ・マキアヴェッリによって唱
えられ、その後ベイコンによって高く評価され、更にホッブズによって近代科
学的よそおいを施されたのだ。ホッブズは国家を機械と見たのだ。このテクノ
ロジー科学も進んできた今日、その考えはもはや曲がり角にきてしまっている
。今日この考えをもとに世間を見てみると、老人や身体障害者はひどい話社会
を形成する「機械」の無駄な部品となっていると言う見方も出てきてしまう。無
論そのような考えはあってはならない。私たちは今一度テクノロジー科学以前
の考えを持つべきだ。
 
 もともと神の理論と言うのは、人間が理解しえない部分をすべて神のおかげ
だと決め付けることだった。この考えの不透明さに業を煮やした17世紀の哲
学者達が、テクノロジー科学を生み出したのだ。不明瞭な点の分析を省いたと
言いかえることもできる。私も先日の定期試験で数学を勉強中、分からないも
のはすべて公式の丸暗記ということにしてしまった。おかげで少し立ち入った
問題になると手も足も出なかった。神頼みも通じなかったようだ。世間を見る
のに分からない部分を神によるもの、と決め付けるのは応用が利かない時に非
常に困るはずだ。
 
 17世紀の当時に比べると、一般的な科学技術は飛躍的に発達してきた。も
ちろん当時分かりえなかったことのほとんどが、現代科学で究明することが可
能になっているはずだ。このような状況の中で、今更神に頼る部分があると言
えようか。躍起にならずとも、物事はすべて分かってくる世の中になったのだ
。17世紀に万有引力を発見したニュートンはどんな考えの中発見するに至っ
たのだろうか。もちろん当時分かりえなかったことは「神」に任せておいて、一
般的現象の解明をすると言う名目で研究をしていたのかもしれない。しかし結
果的にその「神」の存在をも脅かすような科学技術の開発の先駆者となったのも
、皮肉にも彼なのだ。
 
 確かに分からないところの多い、不明瞭な世の中では神の存在に頼ってしま
うということももっともだ。しかしそのような点が限りなく少なくなった今日
で、果たしてその考え方はまかり通るのだろうか。朱に交われば赤くなるとい
うが、世間の風潮が朱なのに対して、いつまでも古い色を貫くのは馬鹿らしい
。その狭間にいる社会的弱者の考えは無視されているのだ。
 
 私たちの今後の目標は、以下にして神を殺すかにある。