ひとこと
嗚呼、無情
イチゴの広場
ペー吉うき中1
現在は、企業活動においても専門化が進んでいる。しかし、専門家というもの
は、往々にして「専門バカ」に為りうるものである。しかし、自分の専門外の
ことについて、ある程度理解し、思慮分別のある言論を展開できる人々がいる
。そのような言論の基盤となるのは、常識であり一般教養である。上手な言論
ならば常識が、知恵のある言論ならば教養が基盤となる。私は、専門的な知識
よりも、常識や教養の方が大事だと思う。常識や教養がなければ、専門的知識
を身につけても、それを大衆に伝えられないし、それの使い方を誤ってしまう
こともあるだろう。例えばノーベルは、ダイナマイトを発明した。ノーベルに
常識や教養がなければ、ダイナマイトは戦争に積極的に利用され、多くの死傷
者を出しただろう。だが、戦争に心を痛めたノーベルは、自らの生み出したダ
イナマイトが戦争に使われるのを嫌った。そうして、ノーベル賞を作り出し、
世界の平和を願ったのである。オッペンハイマーやアインシュタインは、原爆
の理論の基礎を発見し、その強力な兵器をうまく使えば戦争が早期に終わると
言った。しかし、実際はその威力の大きさに驚き、これを使うことに反対した
。彼らに常識がなければ、その威力の大きさを見て、「すごいな。よし、使え
る」と思い、積極的に使おうとしただらう。専門的知識は、常識、一般的教養
がある上になければ、悲惨な結果を招くことになるのである。たしかに、常識
や教養だけでは、個性のない平凡な人間ができあがってしまうだろう。多少の
専門的知識がなければ、社会への反発もないかわりに、社会への貢献もないの
だ。しかし、先ほども書いたように、常識や教養のない専門的知識は、悲惨な
結果を招くのである。「辞書のような人間になるのではなく、辞書をうまく使
える人間になることが勉強の目的だ」という言葉もある。専門的な知識を徹底
的に詰め込んだ人間になるのではなく、専門的知識をうまく活用できる人間に
なることが、人生の目的なのである。