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コンピュータにかぎらず
アジサイの広場
冨田あよ高1
 ある合気道の名人がいた。その名人はある高名な師の一番弟子として皆に知
られていた。彼が道を歩いていて馬の尻の後ろを通り過ぎようとした時、馬が
一声鳴いて後ろ足を蹴り上げた。その名人は身につけた合気道によってそれを
ひらりとかわした。それを見て村人は指すがは名人と褒め称えた。すると同じ
道を彼の師が歩いてきた。村人は師がどのような技を見せるのかとわくわくし
て見ていた。ところがその師は馬の後ろを通ることなく馬が暴れないように馬
の前を歩いていった。
 
 これは合気道に古くから伝わる話であるが、困難を自ら受けて、努力によっ
てそれを避けられるようになるのが合気道の目的ではないということである。
我々は往々にして自ら対象に努力して働きかけ、対象を使いこなすことが進歩
だと思っている。しかし本当の進歩とは我々が使いこなせるように対象を変化
させてやることであろう。我々は、制度にしろ機会にしろ「モノ」を人間に合
わせることを第一とする社会を作っていくことが大切ではなかろうか。
 
 ではどうすれば良いのであろうか。それは我々が「創造力」を働かせること
である。トヨタのハイブリッドカー「プリウス」は環境問題に対してこれまで
「出来るだけ車に乗らないようにしましょう」としか言えなかったところから
一歩前進させた。このハイブリッドカーの開発はこれまでどの車にも搭載され
ていたエンジンと発電機を組み合わせるという「創造力」によって生み出され
たものなのである。対象を我々に合わせていく作業には我々の創造力が多くの
場合伴うであろう。
 
 しかし現実の社会では人間が生み出したものに人間が合わせることが第一だ
とする考えが幅を利かせているのも事実であろう。顕著な例が「古典」という
ものだが、「古典は原書を読んでこそ読んだと言える」と胸を張っていう人が
いる。はたしてそうであろうか。言語とはそれに対応する社会があって始めて
機能する。これは外国に行って日本語が通じないことを見れば明らかであろう
。そのため社会が変化すればそれに見合う言語の形式もニュアンスも変化する
。「古典」の原文にこだわっていつの時代にも共通するであろう人間の内面を
一部の人間にしか掴み取れないとしたら悲しいことだ。良く出来た翻訳や現代
語訳は現代において原書以上の価値を持つと私は思う。
 
 たしかに対象を我々が使いこなすために努力することも大切である。しかし
それは個人的かつ短絡的な物になりやすい。現在のコンピュータのように一部
の、極端に言えば「技術者」しかその能力を完全に享受できないことを見れば
分かるであろう。本当の進歩とは人間の創造力によって、対象を人間に合わせ
てはじめて生まれるであろう。そしてこれをときに我々は発明と呼ぶのである
。合気道の師と名人の違いはこの「創造力」にあったのであろう。