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ひとこと
「無知と知識」
アジサイの広場
玲子あそわ高1
 永い間、知識とは無知に付け加えられ、積み重ねられたものでありしたがってより多く知ることがよ
り真理に近づくことだと考えられてきた。ところが事実は必ずしもそうとばかりにはならずに、ものを
多く知ること、多くの知識を持つことのよって、かえって私達の一人一人は在るがままにものを見る
ことができなくなるという事態が生ずるようになった。
 専門家たちはすぐレッテルをはってものを見ようとするしかし、「裸の人間」は専門的知識を持た
ない代わりに専門的知識によって囚われることのない「裸の眼」を持って相手に接することができる
のだ。
 この前、老人ホームに時々犬や猫を連れて行き一緒に遊ばせる。というニュースをテレビで見た。
その時を毎回楽しみに待つお年寄りや、普段は元気がなくてもその時はとっても元気で生き生きして
いる表情を見せるお年寄りもいた。犬や猫などの動物には不思議な力があるらしい。他にもショック
で口の聞けない子供が動物とふれあうことにより心を開いて前のように話せるようになった。という
話を聞いたことがある。このようにかえって専門家より無知の人間(動物)の方が新しく新鮮な眼で
見、考え、行動をとりその結果、新しい発見や正しい判断が出できる場合もあるのだ。
 しかし、「三匹のこぶた」のお話の中で、三番目のこぶたがちゃんとした知識を持っていたために助
かった。ということにもあるように、知識がなければ大変なことのなる場合も大変多い。「裸の人間
」の眼だけではやはり足りない部分もあるし、「専門家」の眼だけではすぐレッテルを貼られやすい
 どちらか片方の眼だけを見ず両方の眼の調和を考えていくべきである。無知は知識の生みの親なの
だから調和できないはずはない、と私は考える