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ひとこと
現在、子供の
アジサイの広場
冨田あよ高1
 夜空を見ながら女の子が父親に言いました。「あの星を取って。」すると父親が言いました。「あれ
は遠すぎて取れないよ。」父親はそう言うと帰ってしまいました。女の子が一人残って泣いていると
地面がもそもそと動いてモグラが出てきて言いました。「君は地球と言う星の上に立っているんだ。
綺麗じゃないけどこれは星のかけらさ。」女の子は土を受け取ると大喜びで帰りました。
 これは私が子供の時に読んだ童話であるが、父親は星が遠くにあるために取れないことを「知って
いた」。それゆえ自分が星の上に立っていることを「知らなかった」のである。このようなことは現
実の世界にも良くある。和同開珎より古い可能性が高いと新聞を賑わせている富本銭だが発見された
のは30年ほど前で、発見者が博物館に問い合わせたところ江戸時代に作られたものが紛れ込んだもの
だという鑑定だったという。専門家の知識によるレッテル張りは実は視野を狭めただけで何も解決し
ないことも多いであろう。あらゆる人が何らかの専門家である現在、全ての人が一素人ととして社会
にアプローチしていくことが大切であろう。
 ではどうすれば良いのか。それは自分の専門分野についても「不明」と言う枠を作ってやることだ
。何もかも自分の専門知識で解決しようとすると、靴べらでなんでも押し込んでしまうことが起こりや
すい。古生物学者のウォルコットはカンブリア期の正体不明の生物をほとんど節足動物に分類しよう
とした。「不明」という選択肢をもうけてやることで専門外の人の意見を聞く余裕が生まれる。
 それと同時に我々が一素人としていろいろなことに目を通し、疑問意識を持つことが大切であろう
。「知っている」からこそ疑うことが大切である。簡単な例を示せば地動説を疑ったことがあるだろ
うか。天動説が間違っているのが地球が止まっていないからだとすると、太陽も銀河系の中心に対し
て回っているのだから地動説も間違いになってしまう。結局のところ地動説も天動説も何処を止めて
考えるかの違いであって両方正しいのではあるまいか。目が見えるがために風が見えないとは多い。専
門家のレッテル張りが問題だと言いながら専門家の言うことを無条件に受け入れている我々の姿勢も問
題であろう。
 確かに専門家のレッテル張りが必要なことも認めなければならない。我々は言葉によって物事を認
識する。パニック障害という医学用語が出来て初めてその医学的な研究が本格的に始められたという事
実もある。しかし専門知識によるレッテル張りが実質的な意味を持たず、形式的なものとなっている
ことは非常に多い。かといって専門性を低くすることがこれからの展望を開くとも思えない。これから
必要なのは父親とモグラが共に考えていける社会であろう。