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ひとこと
られる
アジサイの広場
さやかあおべ中3
 られるは、受け身、尊敬、自発、可能という四つの仕事を同時に受け持っている。と同時にもう一
つ敬語という仕事もある。それゆえ複雑で、発音しにくいので「ら抜き言葉」ができたのだろう。ら
抜き言葉を認めるかどうかは、二十一世紀日本語の重大問題の一つにはちがいない。ら抜き言葉は、
永く批判の的になりながらも、しかし次第に多く使われるようになった。しかし言語というものはそ
の本質においてうんと保守的なものである。
 人間は常に進歩し続けているのだから、前のものに比べて新しいものが出てくるのは当然である。
しかし、それをどう組み合わせて行くかが問題である。確かに「ら抜き言葉」は便利であるし、私た
ちが「ら抜き言葉」を使って会話をしていてもべつに変な事はないと思う。しかし「見れる」より、
「見られる」と言ったほうが丁寧な感じがする事は確かであると思う。新しい「ら抜き言葉」は使いや
すいが、「ら」をつけた正式な言い方のほうが丁寧できちんとしていると思うのはやはりもとが日本
人だけあるなあと感じる。
 昔話でよく、「若者が迷っていると、そこへおじいさんがやってきてアドバイスをしてくれました
。」というお話がある。その事からも新しいものは古いものから学べということが分かる。私たちは
ふるい言葉を守っていかなければならないのではないかと思う。
 「ら抜き言葉」は次第に多く使われるようになった。しかし「できあがった規則をなんとか守ろう
とすることよりも、実態に合わせて規則を変えていくことが、真に規則を生かす道である。」と言う
言葉があるように、「ら抜き言葉」がだんだんと多く使われるようになったからと言ってそればかりを
使わずに2つを両立させて行く事が大切であると思う。