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社会は個人から
アジサイの広場
ペー吉うき中2
 日本においては、社会は個人から成り立つものとされている。したがって、
個人は社会の運営に責任を持っていることになっている。しかし、実際は、日
本人は「社会」ではなく「世間」の枠で動いていることが多い。そして、その
世間は排他性や閉鎖性を強く持っている。公共の場において、それがもっとも
強く現れる。問題なのは、日本人にその排他性の自覚がないことである。
 
 私は、確かに日本人は排他性をもった世間を形成していると思う。そして、
その世間の狭さは、やや問題だと思う。しばらく前に、電車に乗った時のこと
だ。その時、港南台から池袋を目指していたのだが、品川で10〜20人くらいの
高校生の集団が乗ってきた。その高校生達は、一斉に車両の隅で駄弁りはじめ
た。周りを無視した大声で、だんだんその集団の周りには奇妙な空間ができて
いった。非常に迷惑だったので、私は高田馬場で降車した。組織ではない集団
というのは、非常にたちが悪い。何故なら、一人一人が自由に行動しているか
らだ。
 
 私の経験上のデータから、学校のクラスの中でも、人間は(私の周囲の人間
しか見ていないので、「日本人は」と限定できないが)幾つかのグループに分
かれている。平均して4人くらいの集団が、約10ほどある。そして、休み時
間には、その集団は、自分らの理解できる話題に興じている。
 
 「悪書を読まないことは、良書を読むための最初の条件である」。まず、日
本人の心の奥底に、狭く小さな「世間」という意識が芽生えてしまったことが
問題なのではないだろうか。これを、もっと公共的なものに変換するには、日
本人の思考を根底から変革しなければならない。これは、まず不可能と言って
いいだろう。いっそのこと、このようなせまい世界を作るのも、日本の文化と
して「開き直って」しまうのも手かもしれない。