ひとこと
無題
アジサイの広場
寛則えう高3
 人間は、デカルトが確立して以来、ものを知るのに分析という方法を使って
きた。しかし、この分析という認識方法はすべての対象に適用できるものでは
ない。例えば、ユニークなものや、生き物、人間、精神などのような変化する
ものは本来分析は使われないものであるが、しかし、現代ではこれらのことに
も分析が進められており、そのことにより、物事を見る際に分析した一つのこ
とで評価するようになり、度を越す程にもなってきた。今後、特に人間に関わ
る分野にはもっとトータル的に見て行く必要があるのではないだろうか。
 最近では、高2から大学への飛び進級制度に対して賛否両論の意見が飛んで
いる。私は率直に言えばこの制度には反対である。それぞれの分野を分析して
みれば、その分野に関しては飛びぬけた力を持っているかもしれない。しかし
、生きていくなかで、高3の生活が欠けているのはその人にとってとてもマイ
ナスになっているように思えてならない。私は高3のたったの一年間でも、多
くのことを学んだ。中高一貫だったのでほとんどの人と六年間過ごしてきたが
、六年目にして初めてその人の良さ、悪い点を発見することもあったし、又、
自分の短所、弱点等も受験などの経験を通して学ぶことができた。これらは、
まず参考書等には載ってはいないことだろう。大学に入り、その分野の学力に
適応できたとしても、トータル的に考えればこの抜けた穴は大きいと思う。
 ところで、現代の医学の進歩には凄まじいものがある。これも今まで分析を
重ねてきた結果といえるだろう。しかし、確かに人々は医者にかかれば安心感
が生まれてきたが、満足しているとまではいえないだろう。それは、高い医療
費や診察までの長い待ち時間等がこの原因のいい例である。最近では医療装置
や薬等も発達したが、値段が高くて違う悩みが生まれてきてしまっている。こ
れこそ国からの援助を行うべきではないかと思うのだが、更に、深く掘る分析
だけでなく、周りのことにも目を配れるような横に広い分析を行って行くべき
ではないだろうか。
 確かに、私達の先祖が今まで行ってきた分析によって現代の平和な暮らしが
生まれてきたのだし、今後、更に高い水準を目指すのであれば分析は必要不可
欠であるだろう。しかし、その結果によって犠牲が生まれてはならないと思う
。人間は、当然、一人では生きて行けないし、そして一つの知識だけでも生き
て行けないのであって、トータル的に物事を見て、考えることが大切になって
来るのではないだろうか。