ひとこと
本当の豊かさ
アジサイの広場
乱月あし高2
 お年玉、私たちのような貧乏高校生にとっては非常に貴重な収入源である。セオリーどおり、昨年
の金額よりも多い額面がたった一日にして手に入った。私は非常に豊かになった。調子に乗って楽譜を
買ってしまったほどだ。時に今私がこの文章中で使用した「豊か」とはいったいどういったものだろ
うか。少し考えれば分かることだが、明らかに人生の中で苦労して手に入れる「豊かさ」とは違う。
そこには内面的、外面的な差というだけではなくそこには熟考すべき大きな違いがあるのだ。今日簡
単に手に入る豊かさで満足して、本当の豊かさをあえて求めようとしなくなっている人が多くなって
いる。今日の世間にはものがあふれていて、そのせいで私たちはそこから自分で豊かさを作り出す力を
無くしてしまったようだ。
 高齢化社会、少子化傾向という二つの柱に支えられるような形で、一人の子供に対する大人の数は
どんどん増えてきた。その事実に比例するように子供の欲求は肥大していき、終いには彼らの手にし
ている増えきった小遣いをはるかに超すようなものまで求めるようになってきたのだ。そのためその
再現の無い欲望を段階的に満たしてところで「豊かさ」を手に入れたと誤解するのだ。実際に昨年末
までの私にある感覚のなかでその楽譜はとてつもなく高いものだった。ところがいざまとまったお金
が手に入るとそれはいとも簡単に手にはいってしまう。果たしてこのような言わば簡単なことで「豊
かさ」を手に入れたと考えてしまうことに抵抗はないのだろうか。もしあるとすれば脳みその回線が剥
離してしまっているのだろう。はんだ付けでもして直す必要が有りそうだ。このような感覚のずれが
「豊かさ」の認識をずらしているのだろう。
 自分で働かせてみてはどうだろうか。1時間汗水たらして働いて750円手に入るという現実を知らせる
べきだ。そうでなくてもお年玉、小遣いにそれなりの代償をつけてみてはどうだろう。豊臣秀吉は懐
に草履を入れて暖めるといった下積み時代を経験しているからこそ民衆の考えることを事前に予測で
きたのだ。私たちも一度そのようなことをすればお金の行き先とその結果手に入るほんの少しの「豊
かさ」を見出すことができるのだろう。
 たしかにこの「豊か」な世の中で本当の「豊かさ」を見出すには時間も無ければ機会も無い。しか
し心がけを変えるだけで物の見方が少しは変わってくるはずだ。「まずできることから」2000年にな
った時に起こるコンピュータショックに望むプログラマの境地だ。
 今後の風呂当番を当分請け負おうと思う。