ひとこと
歴史と文学
アジサイの広場
酔月あも高2
 人間の思想や知識というものは、厳密な自然科学と文学にあり、歴史は後者にあたる。歴史は細分
化され、研究されるが、研究されたデータが無限に集まったところで、世界観が無ければ史料の統一
はできない。自分が歴史的世界に生きることを実感せずして、歴史的個人の軽視をしてしまうような
楽観的な歴史の見方から開放されることはないのである。
 私は現在の日本の社会において、明確な価値観を持たずに情報や知識で物事を判断していることが問
題であると思う。というのも、情報や知識で物事を判断することは、マスコミなどの情報源による社会
全体の操作が、起こりかねないからである。
 日本人が明確な価値観を持たなくなっている原因として、急速な情報化がある。日本人は情報に追
いつくのに必死になってしまっている。おかげで、情報にの上でぷかぷかと浮いていることが一番よ
いかのように思われているのである。実際、苦労して情報を大量に集めた後に残るものは空虚に他なら
ないのである。
 私はテスト前になると情報の収集に忙しい。普段からあまりまじめに授業を受けていないので、試
験の範囲から調べ始める。そして、範囲に見合った教科書、参考書、問題集を机の上に積み上げる。
ところが、富士山並みに積み上がった情報の山を前に私が手に取るものはというと、パソコンのキー
ボードであったり雑誌であったりいつも関係の無いものばかりである。「情報も 集めただけでは 
ただの紙」だということを試験のたびに実感する今日このごろである。
 情報に追われる日本人が、明確な価値観を持つための対策として、情報や知識に対して、自分で賛
否両論を唱えてみるということがある。一つの情報の悪い面とよい面を見ていくことで、自分の考え方
や価値観というものがまとまっていくのである。そのためには、やはり多くの情報に触れて、比較検
討を繰り返していくことが第一歩となるのである。
 中世において、ギロチンというものが多用されてきた。現代においてギロチンは悪者であり、残酷
な殺し方の一つであるかのようにいわれている。ところが、実際中世では、刃がストンと落ちてきて
、一瞬にして死んでしまうので今ほどの悪評はなかったという。ギロチンのよさを知ったとき、私は
自分のギロチンというすばらしいマシーンに対する偏見を悟った。
 確かに、日本人が情報に流されやすいことは、「NOといえる日本」という本のタイトルからも伺
えるように、自覚の域に達していて、それは民族的なものだからしょうがないという考えもある。だ
が、これからの先進国としての日本は、自分独自の価値観や考え方を持つべきであると思う。ヘラクレ
イトスの言うとおり「万物は流転する。」べきなのだ。