ひとこと
分析
アジサイの広場
T.Oいう高1
 分析とは簡単に言うと、ものを必要なだけの部分に分けることであり、分析的方法が使えるものは
、例を挙げれば水やアルコールなどといった物質である。水なら水素原子二個と酸素原子一個から成る
といったように記号として要素に分けることが出来、そういった形で理解することができる。しかし
、我々人間や精神などの絶えず変化するものには先ほどの方法は適用できない。にもかかわらず、現代
社会はその人間までも無理矢理に学習能力や体力などといったように部分に記号で分けて、それぞれ
は別物として扱ってしまっている。もっと物事を全体的にとらえられるようにすべきである。
 それは、物事は何にしても一つの面から見たことだけでは判断できないからだ。例えば中学校以上
になると、学期ごとに成績表がかえってくる。各科目ごとの評価はもちろんのこと、その他に講評欄
というものがある。本来なら成績以外のことを中心に書くべきであるのに、そこには大概成績関連の事
柄が大半を占めていることが多い。それを見て大概の親や教師は、成績の数字を見てその生徒を判断
してしまっていることが多い。人間というものは、いろいろな能力を持っている生き物であり、学習
能力はその中の一つに過ぎないのに一番記号化しやすいがために重要視されるようになってしまった
。そこで本当に大切なことはその人の全体図を見てあげることである。
 そのためには、何事にも最初から細部にばかり注目するのではなく、そのものの全体像をとらえるよ
うに心がけることである。分析的方法の確立者のデカルトは、「研究しようとする問題のおのおのを
できる限り、そして解決しやすくするために要求される限りの部分に分けること」として方法を定義
し後の世に残り、現在の科学者の基礎知識としてありつづけている。その科学者たちはものを分解する
ことには成功したが、そのものの本質すべてを明確にできたわけではない。要素全てを足しあわせれ
ばそのものが完成できるとは限らないのではないか。
 物事を個々に分けて、分析的に見ることも確かに大切ではあるが、やはりトータル的なものの見方
の方が大切である。会社の入社試験をする上で、調査書というものが審査の対象の一つにある。それ
には身長から学歴まで事細かに書かれているが、肝心の人間性に関してはまったく分からない。文字
どおりの人物か、逆に調査書とはまったく違う人物かもしれない。人間に限らず、すべてのものには
分割された要素をすべて足しただけでは埋められないプラスアルファが存在する。これからの社会を
生きる人たちは、互いにそのプラスアルファを見つけだし、尊重していくことが大切であると思う。