ひとこと
歴史と文学
アジサイの広場
T.Oいう高1
 自然科学の急速な発達に伴い、歴史科学にも資料や細分化された客観的な知識を集めることによっ
て完成するという楽観主義が生じた。そして、それによって科学的歴史は「個人」の価値を社会の中
に無理矢理埋没し、個人の軽視を行う傾向が現れた。しかし、データが最重要視されるようになっても
、そのデータの中にも何かしら不明確な点が存在することがあり、それらを訂正し統一する際にはど
うしてもその人独自の主観が必要になってくる。歴史は、客観主義や決定論を捨て、歴史自体に参与
すること意味がある。つまり、自分なりの主観を持つことが大切だということである。
 それは、人の主観を働かすことに大きな意味があるからである。人は生きている限り、「現在」と
いう歴史の中に含まれているのであり、そこで自分の考えなどを押し出すことによって初めてその歴
史を動かしたことになるのではないかと思う。私は、あまりそういったことを実現できたことはあまり
ないが、先程のように考えると私も生きている歴史人の一人として過去を単なる過去として見るので
はなく、前の時代に生きた人々の作り上げた歴史を自分の見方で解釈し、そこから学んだことを生きる
上で役立てようと思う。
 それには、月並みな言葉かもしれないが日々の勉強を知識のためではなく、自分自身の考えを広げる
ためのものにするという意識を持つことが必要である。福沢諭吉は最初にオランダ語を必死に学び、
その後英語こそこの後の世に通用する語になると気づき、英語の勉強に専念した。それは単に知識の
ひとつにしたかったからではなく、英語を通して外国の文化を日本にも取り入れようとしたからである
。世のために自分の知識を役立てるということは、現代では難しいことかもしれないが、伝記上の偉
人のように形だけの勉強ではない真の学問を目指して行きたい。
 確かに、知識に裏付けされた考えもなければ正しい判断はできないこともある。しかし、だからと
いって知識だけですべてが解決できるわけではない。「~~~一つの価値を形成するのは、自分のう
ちに未来への情熱を見出す人間にとってのみである」というヴァレリーの言葉にあるように、自分の
価値観に基づいた、理想を追求するための勉強というものに早く気づき、それに向かって邁進したい
と思う。