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運命はどのように扉を叩く
アジサイの広場
ペー吉うき中3
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 何よりも冷酷に人を嬲るものがあるとすれば、それは恐らく「運命」である
。優しく私たちを包み込み、そっと頬を撫でながら、気まぐれに首を捻り切る
。人間は遥か昔から運命を恐れ、逃れようと必死に足掻いてきた。だが、誰が
運命に逆らえた者か、知るものはいない。何が運命であるかは、誰も知らない
のだから。だが、運命というものが果たして在るかどうかもまた、誰も知らな
いのだ。人間が自分で決めた「運命」という言葉に縛られている、それだけか
もしれないのだ。
 
 日々を過ごしている上では、誰も運命のレールに疑問はもたない。それを考
えるのは恐ろしいことであり、考えても得ることはないからだ。だが、なんら
かの理由で落ち込み、思考が暗く沈んだとき、運命の存在は頭をもたげてくる
。「もしかしたら自分の人生は運命づけられており、これから先すべての物事
は決定されているのかもしれない。だとしたら私が必死に生きる意味はなんだ
ろう」と。私も生来の思索好きの所為で、時折こういった思考の泥沼にハマる
。そんな時の私の解決法は、そこから「考えない」ことである。運命を意識し
てしまうから我々は不幸になる。在るかどうかもわからない、人々の言葉の中
にだけ浮かんで消える、そんな空虚なものに悩まされたくはない。
 
 偉大な音楽家であったベートーベンは、31歳の時、耳が聞こえなくなった
。音を紡ぐのに音を聞けなくなった彼の苦悩は計り知れない。彼は世界を呪い
、運命を呪い、絶望し、そして絶望したものがとる道を選ぼうとした。自らの
死に逃げようとしたのだ。だが、彼は結局死ぬことはなかった。強い精神力で
作曲活動に復帰した。それでも私は創るのだ、と。運命という枠を超えて、逆
境の中から歩もうと。運命という絶望から歩きだすのはとても難しい。ベート
ーベンほどハードでなくてもいいが、私たちは、自分で作り出した運命にとら
われぬことが必要だ。
 
 運命の恐ろしさは、ひとの意味を消失させることだ。すべては定まっている
のだ、という言葉は、何にも増して私たちに無力感を味わわせる。だが、そん
なあるのかないのかわからないものに悩み、自分の人生をふいにしてしまうの
は損である。運命という言葉はとても大袈裟に使われているが、実際は幽霊よ
りも存在感のないものだ。「二人の出会いは運命だった、と言っていたカップ
ルが別れると、運命はただの偶然に変わる」とは嘉門達夫の言葉だ。運命とは
その程度のものなのだ。宿命だの運命だのに悩む前に、私たちにはもっと身近
で大切な、さまざまな問題があるのではなかろうか。自分が生み出した価値観
の中で彷徨わず、運命に頼らず自分を頼りに、運命の所為にせず己に問い、生
きていくことが大切なのではないだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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