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私たちが日常
イチゴの広場
太一あうけ中1
 私たちが日常、言葉を使っているときは、普段表されるような内容がまずあ
って、それを盛って運ぶ手段として言葉があるというふうに考えています。だ
から、言葉は、,何か透明になってしまっているような感じがするのではない
でしょうか。ところが、詩を読みますと、言葉が私たちの前にふさがって、そ
れに私たちが頭をぶつけているそんな印象を持つのではないかと私は思います
。言葉がそこでは不透明になって、私たちの意識が素通りすることを許してく
れないわけです。
 
 僕は、詩を好きというわけでもないし、詩を読んで感動したこともない。だ
が、この「かっぱ」の詩は、ちょっと目を通してみて、なんかおもしろいなー
とおもった見ただけでは、ただ同じ言葉を並べているように思える。しかし、
よく見てみるとちゃんと意味をなしている。これはどちらかというと、詩より
言葉遊びのような感じだ。だが、ここで気づいたが、詩も言葉遊びの一種なの
だ。言葉遊びで一番身近なものの中にダジャレがある。僕の通う中学の理科の
先生は、授業中どこで考えたのか、急に授業に関連した言葉でシャレを言って
くる。それがふつうの時は笑ってくれるが、あまりにもつまらないと、僕たち
は笑いもしないでしらけてしまう。だけどそれはそれで、ある意味授業に楽し
さというものを与えてくれる。
 
 言葉というものは、本来自分の意志の媒体になっているが、言葉遊びなどで
は、それが媒体のまま、頭に飛び込んでくる。それでおもしろさや感動を生み
出すと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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