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内面がほにゃらか
アジサイの広場
幸子あさも中2
 目明きは、何でも見えるために、何でも分かると思っている。しかし、盲人
は「心の眼」を通して色々なものを見ている。私たち目明きは、誤解を恐れ、
あげ足とりを恐れるあまり、私達は、そうした言葉を、最も定義しやすい意味
だけに限定して使う。一見、荒唐無稽でばかばかしく、無駄に見える神話や昔
話には、大宇宙との対話を助ける心の眼のようなものがある。生態系にある無
駄や無秩序のなかには、調和していきるための叡智がある。
 
 目明きは表面しか見えないが、盲人は内面を見ることが出来る。目明きは理
屈くさいが、盲人は理屈では理解しえないことまで知ることができる。例えば
、不良(死語)っぽい人などは、目明きなどが見たら、「あらいやだわあの子
昔はいい子だったのに…」ということになるが、盲人が見たら(?)、「かわ
いそうに、オメーも苦労したんだな…」ということになる。その不良(だから
死語だって…)の心の寂しさとか(?)を分かってかっこつけたいと思う気持
ちとかを、分かってやることが出来る。
 
 浦島太郎とかの話でも、目明きとかがきいたりすれば、「乙姫様はなんで玉
手箱なんていう役にたたねーもんくれたのか」なーんて言う、永遠の疑問が残
るわけだが、もしも盲人がその話を聞いたら、「きっと乙姫様は●●が××し
て、○○だったんだなー」と、内面まで見えるのである。
 
 確かに内面が見えてしまって、嫌なことが無いわけでもない。例えば、「○
○さんはこーんなあーんなこと考えてたんだ…ショック…」などである。しか
し、「存在するものには、よいとか悪いとか言う前にすべてそれなりの理由が
ある。」という言葉があるが、内面まで見えてしまうのが良いとか悪いとかで
はなく、それなりの理由があるもんだ!と考えればよいと思う。
 
     …話変わっちゃった。ごめんなさーい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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