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人かモノか
アジサイの広場
吉見こと大3
 今年、脳死患者からの臓器移植が国内で初めて行われた。アメリカでは既に
臓器移植は日常化しているが、その一歩を今回、初めて踏むこととなった日本
では様々な問題が湧き起こった。普通、人間の死は心臓が停止することで起こ
る。ところがまれに脳が先に機能停止に陥ることがあり、それが今日の脳死と
認定されている。この場合、中枢神経をまとめる脳の死によってやがては死ぬ
こととなるが今日の医学テクノロジーの著しい発達は脳死状態の体を、しばら
くの間、生かし更には脳死状態の体から臓器を取り出し他人の体に移植するこ
とを可能にしてしまった。いくつもの課題はあるが、いずれは日本も臓器移植
が日常化するだろう。
 
 今回、臓器移植の一連の報道は『臓器移植は正しいのか悪いのか』に終始し
ていた。だが本来この臓器移植問題で最初に考えねばならないことは脳死状態
のベットに横たわっている体は『人』なのか、もしくは『モノ(他の人が生き
るための)』なのか、ということだ。アメリカでは様々な宗教こそ存在するが
キリスト教は基本的に『奉仕の精神』である。そのような社会的背景がアメリ
カの臓器移植を日常化させた。つまりアメリカでは死は人をモノへ転化させる
のだ。
 
 だが日本では、そのようなわけにはいかない。日本人は一般的に無宗教と言
われているが、その根底には仏教がある。仏滅には結婚式を避けたり四十九日
の奉納やお盆のお参りなど昔ながらの仏教的慣習が今日でも根強く残っている
。仏教の特殊性は『人は死ぬと仏様になる』ということだ。つまり言いかえる
と人は仏様となって生きる、ということになる。仏様はつまり神様であり脳死
状態の患者から臓器を取り出すことは『死者への冒涜』に他ならない。
 
 脳死の患者には『死』しか待っていない。だが臓器移植をすれば体の一部が
他人の体の中で生き続けることができる。そこには『死』を越えた『新しい生
へのリレー』つまり『輪廻』の思想が存在する。『人』か『モノ』か、その答
えは簡単には出せないだろう。だが議論する価値は充分にある。
 
 *今回は苦手な分野で難しいので失敗。こんな暗い内容でユーモア表現を、
というのは厳しいです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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