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何はともあれ
アジサイの広場
隆史きね高1
 音楽作品とは本来切断してはならないもののはずなのに、それを切り刻んで
差し出すコマーシャルの十五秒間は、もはや西洋近代のひとつの極限的な文化
のかたちというより、おびただしく流通する商業音楽を飽食するなかでこそ光
るエスニックのような新鮮さなのかもしれない。世の中にはクラシック音楽は
難しいという人が今でも結構いる。その人たちが口をそろえて語るのは、一曲
が長いので途中で退屈してしまう、まして暗く閉ざされたコンサート会場で長
時間、物音ひとつ立てずにじっと座っているのは苦痛だ、ということである。
つまり、コマーシャルのクラシック音楽が効果を上げたのは、十五秒ぽっきり
という異端の聴き方が心の間隙をついた、という一面が会ったのではないだろ
うか。
 
 この頃、よくコマーシャルでクラシック音楽の一部が流れることがある。コ
マーシャルでクラシックを聴くぶんには短いから飽きないが、本当に聴くとつ
かれてきて最後まで聴かないことが良くある。だが、短いと嫌な音楽でも飽き
なくなるのである。これは、昔と今では、人の感覚が全く違ってしまったから
であると思う。昔のクラシック音楽が長いのは昔の人たちが大思想家だからで
ある。
 
 今よく少年犯罪が増えているのは、今日の人々が昔と違って無思想家になり
つつあるからである。そのためになんでも自由なので、何も考えないで突発的
に動いてしまうのである。だから、オーム信理教はサリンを地下鉄でまいて簡
単に人を殺すことができたのである。
 
 確かに、自由で気軽なのも良いが、気が重いのも充実して良いかもしれない
。「悪いことそのものがあるのではない。時と場合によって悪いことがあるの
である。」という言葉があるようにその時の状態によって気軽にやるのかどう
か考えるべきである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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