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井戸端園の
アジサイの広場
武照あよ高2
 それはとんでもなく変な形をしていた。口とは別に長い象のような管が付い
ていて、その先端には刺の付いたはさみが付いている。おまけに目は五つ。体
には十数枚のひらひらが付いている。映画に出てくる怪獣ではない。実際に、
かつての地球に存在した生物なのである。カンブリア紀にはこのような現在の
生物のデザインでは想像も付かないような奇妙奇天烈な生物が多く存在した。
進化論学者スティーブン・ジェイ・グールドはこれを「カンブリア爆発」と名
づけ、それ以前には単純なデザインの生物しかいなかったため新たな適応のた
め、生物たちが可能なあらゆるデザインを試した時期であったのだと結論した
 
 これは生物の進化の例であるが、もっと近いところでも不足が新たな物を作
り出すということがあるであろう。科学の発展はその不足にあったと言っても
過言ではあるまい。しかし科学が我々の遥か先を走り、モノも情報も充足した
現在、不足を我々があまり感じなくなっている事も事実ではなかろうか。我々
は「不足」の心を持つ事が重要ではなかろうか。
 
 ではそれにはどうすれば良いのだろうか。それはすべての物が完全でないと
言う事を認識する事であろう。ビデオ・テープに書き込む事の出来る時間を三
時間延長する事に成功した業者が言っていた事だが、「初め研究チームに三時
間延長するよう依頼すると。それは不可能だと言ってきた。そこで、それなら
仕方がない。だがあと三分伸ばす事はできるかというと、出来ると言った。そ
の調子で十分、三十分、一時間と伸ばしていくと、結局三時間延長する事に成
功してしまった。」初めから充足した物と考えて、これまでの物を壊して新た
物を作り出していくことができぬとしたら残念な事だ。我々はあらゆる物は不
完全であると考える事によって充足から不足を見つけ出していく事が重要であ
ろう。
 
 しかし現実の社会では充足に慣れきって「不足」を忘れていることも多い。
その典型的な例が「選挙権」であろう。一部の人間にしか選挙権が与えられて
いなかったとき、人々は選挙権を要求した。しかしいざ選挙権が与えられてし
まえば次第に選挙への関心は薄れていき今では「選挙カーがうるさい」などと
いう事が堂々と新聞に載っていたりする。
 
 確かに「知足」と言う事も大切かもしれぬ。現代人は「モア・アンド・モア
」教の信者であると言う人がいる。果てしない「不足」が本当に人間を幸福に
するのか、ここで立ち止まるべきではないのかということである。しかしすべ
ての人間が充足に満足したときそれは人間の向上心の喪失を意味するのであろ
う。科学者はもっと知ろうという好奇心が科学の面白味である事を知っている
。「カンブリア爆発」があってこそ今の人間という種が存在する。「不足の心
」があってこそ今とは違う未来の我々がいるはずである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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