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科学における発想と...
アジサイの広場
AE86えや中3
 「科学における発想と論理」という話になると、いつも昔やったハバチのこ
とを思い出す。日本にも同じ種とされているマツノキハバチが、高山のハイマ
ツ帯にいるという。出発のとき、ふとある発想がひらめいた。大学前のバス停
に学生を持たせて研究所にとって返した。そして、旧式の自記温度計をぶら下
げて、バス停にもどった。「そんなもの、どうするのですか」と、学生がいぶ
かしげに尋ねる。山から帰ってきて、早速、昼は二十五度、夜はただの五度と
いう条件で飼育を始めた。さて、この結果を学会で発表する段になると、ある
配慮が必要となった。二十五度一定、あるいは十六度一定という条件では、全
部死にました。そこまでは良い。「それで、ふと思いつきまして.....」
とは絶対に言えない。どうしたかというと、「「そこでこの虫の生息している
場所の気温を測定してみました」といって、自記温度計で記録したデータを見
せる。これが今までの科学教育の落とし穴である。
 
 書き出しにあるように、「~をたまたま~してみたら~になりました」のよ
うな「思いつき」のようなことは絶対に言わない。むしろ「~が~だと思い~
してみたら~になりました」と論理的に物事を言う。今の世の中は、すべとい
っていいほどコンピューターのデータによりコントロールされている。だから
人間は、数字でないと物事を信用しない。学校の成績もその中に入る(?)。
しかし、僕はコンピューターを信用しない。その訳として、たまに起こるいろ
いろな誤作動がある。
 
 物事には必ずといっていいほど外と中身がある。確かに外見は同じだ。でも
中身が必ず違う。これは、人間が挙げられる。それと良く似た昔話に「花咲じ
いさん」や「こぶとりじいさん」という話しがある。二つとも欲張りなじいさ
んがでてきて、片方のじいさんがなにかをすると、そのじいさんも真似してや
ってみる。しかし、外見は同じ宝箱が出てくるのだが、その中身は全く正反対
である。だから、物事を外見だけで見てはいけないのだ。
 
 今大切なのは、科学も技術も、普通思われているものとは異なって、ずっと
人間的なものなのだということを、深刻に意識することである。又、確かなデ
ータというものは議論に決着をつける時に必要ではあるが、頼りすぎは良くな
い。「知恵がはしごを作ったのではなく、二階にあがりたいという熱意がはし
ごを作ったのだ。」ということばもあるように、内側にある気持ちが必要なの
だ。 「科学における発想と論理」という話になると、いつも昔やったハバチ
のことを思い出す。日本にも同じ種とされているマツノキハバチが、高山のハ
イマツ帯にいるという。出発のとき、ふとある発想がひらめいた。大学前のバ
ス停に学生を持たせて研究所にとって返した。そして、旧式の自記温度計をぶ
ら下げて、バス停にもどった。「そんなもの、どうするのですか」と、学生が
いぶかしげに尋ねる。山から帰ってきて、早速、昼は二十五度、夜はただの五
度という条件で飼育を始めた。さて、この結果を学会で発表する段になると、
ある配慮が必要となった。二十五度一定、あるいは十六度一定という条件では
、全部死にました。そこまでは良い。「それで、ふと思いつきまして....
.」とは絶対に言えない。どうしたかというと、「「そこでこの虫の生息して
いる場所の気温を測定してみました」といって、自記温度計で記録したデータ
を見せる。これが今までの科学教育の落とし穴である。<img
src="http://www.mmjp.or.jp/shine/e/yokdekitasyou.gif" alt="img">
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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