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宗教と日本人 アジサイの広場
UZI.SMGそお高2

 「日本人は無宗教民族だから」という文句を当然のごとく口走る日本人は多い。最近、「20世紀は東西冷戦構造の時代」に対して「21世紀は
文明による世界の区別化」という説が起きている。この中での文明に宗教が大きく関わる、さらにはキリスト圏対イスラム圏的な構造を想起してい る人までいる。こんな中で我々日本人には、「無宗教だから関係ない」だとか、「殺し合いをするなんて馬鹿げてる、神が起こるぞ」などと暴論を 吐く人が多いのではないか。しかし、国際社会においてそうした無関心で投げやりな態度はあってはならないと信じる。そこで、日本人と宗教につ いて考えてみたい。  

 
 

 日本にも歴史的に見て、当然のように宗教が存在する。古くは自然信仰といった原始宗教だが、八百万の神だとか、伊勢神宮を始めとする天皇家
への信仰、他にも仏教だとかキリスト教・・・といった外来の宗教もある。たまたま現在、多くの人が宗教を生活の基本としていないだけで、無宗 教民族では全くない。多くの場合神仏の存在を無意識に認めているように思える。なぜなら正月には神社に行くし、他にも一年のうち何回かはお参 りしに行くだろう。このように未だに宗教的儀式が残されているのだから、無宗教と断言できまい。ただしキリスト教やイスラム教のような世界的 な宗教との形式の違いは、日本人は唯一神信仰をしないところだろう。大体、神仏という妙な日本語が存在しているし、八百万の神までいる。ただ 、数多くの神を認めてはいるが、その存在は絶対的といえる。人間を超越した存在として見なされているからだ。このようにみれば、日本人は宗教 と無縁ではないことは明らかであろう。  

 
 

 さて、こう考えてみて他人の宗教へ無関心でいられるだろうか。確かに、イスラム教の戒律主義のような一面を見ると、「なんか俺たちとは違う
ぜ。ああいうのを宗教というのか。」という気になるだろう。だが、神という存在を信じるという点においては、自分たちとの共通性を見出せるの ではないか。また、その人にとって信仰が個性の一部となっている場合、(その人と付き合うためには個性を認めなければならないわけだから、) 宗教という側面を見逃してはならない。ましてやその個性を否定することは、その人自身を存在ごと否定するに等しい。国家間においても当然、宗 教の否定が国家の否定に直結することはありうる。そうなれば当然、日本も宗教を政治的な意味からして慎重に扱う必要がある。宗教無関心では、 その国に対して「あなたのことなんかどうでも良い」と言うに等しい。日本にも宗教を考えられる土壌があるということを思い出して欲しい。  

 
 

 このように、日本人は自認していないだけで宗教的土壌に恵まれているのだ。まずそのことを認識する必要がある。そして、国際社会において政
治的に参加してゆくためには、無関心を装うのではなく自他の宗教を認める必要があるのだ。そのためには、ただ「あなたの宗教を認めます、わか ります」と言うだけでなく、どういう宗教なのか尋ねたり教典を読んだりして勉強した方が良い。手始めに、というのは不適当だが、世界宗教と呼 ばれるキリスト教、イスラム教、仏教については、教典を読んだり教会に行ったりしてみるべきだ。何も知らないで、メディアの報道だけを信じ込 んでいては、とんでもない過ちを犯すだろう。実際NYテロの後、「犯人はイスラム教徒か?」という報道ののち、アラブ系アメリカ人数名が理由も なく殺害されている。このように、今再び宗教は国際問題化している。とにかく、日本人はもっと宗教を勉強しなければならないのだ。  

 
                                           
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