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暴威なきピルグリム イチゴの広場
眠雨うき高2

 宗教の攻撃性というものがある。最近ではアメリカでのテロ事件と報復攻撃が記憶に新しいが、これに限らずイスラム教のジハードやキリスト教
の十字軍遠征など、古来よりその性質は見え隠れしていた。現在は信仰の自由こそ認められているが、「宗教団体」というと何か怪しげな印象があ るし、それに入っているといえばやや引いた目で見られてしまう現実がある。本来、宗教は人をより良い方向へ導いていこうとする存在のはずであ る。それがなぜ攻撃性を持ち、白い目で見られるようになってしまったのだろうか。  

 その原因としては第一に、宗教の説く絶対性というものがあげられる。それは宗教を維持していくのに必要な神という存在でもあるのだが、宗教
も一つの思想である以上どこまでもまやかしの絶対性に過ぎない。まやかしであるがゆえに、絶対の物事を装って語られる宗教の正義は、多く一面 的で直進的である。絶対正義にはブレーキが利かない。人を傷つける罪悪感から自らに抱く正義への疑問を、宗教は持たせない。疑いなく正しいか らである。小学校の時に友人と喧嘩をしたことがあったが、翌日か翌々日にはどちらからともなく謝って仲直りをした。自分にも間違いがあったこ とを認めたからである。宗教の闘争にはそれができない。自分に間違いがあったことを認めては、絶対性の否認になるからである。絶対性は排他性 ということもできる。宗教はその性質ゆえに、異なる思想と共存する手段をもたないのだ。  

 また第二に、宗教が与える安心感というものがあるだろう。何か強いものに庇護されているという感覚、自分と同じものを信じ、同じものを理想
としている人間が複数いるという安心感。これは宗教の抜けられない理由でもあるし、同時に何でもやることができるひとつの理由でもあるだろう 。宗教は大義名分を与え、それに同調する大人数を提供する。そうした環境で人の感覚は麻痺し、教義と周囲の流れに従って生きるようになってし まう。ある新興宗教の勧誘のひとつに、こんなものがあるそうだ。まず誰かをつかまえる。宗教に興味はないかと聞き、話だけでもと誘いかけ、本 部のある建物へ連れ込んでいく。するとそこには教徒が何人も集まっている。彼らは一斉に勧誘された人の方を向いて、「おかえりなさい」「おか えりなさい!」と笑顔で言うそうだ。無論見ず知らずの人間である。団体独特の安心感を最初に味わわせ、その感銘の切れ端を与える。宗教の抜け 出せない魅力を端的に示すいい例であろう。  

 確かに排他性が宗教のすべてではないし、迫害や被差別の多い宗教の歴史を紐解けば、自衛手段としてのある程度の攻撃性はやむを得なかったか
もしれない。しかし現在に恐ろしいのは、その宗教の攻撃性が「教義だから」と半ばわかったような顔をされ、しかもそれが人を殴る免罪符になり 得るということだ。宗教は本来人に善行を薦める。「天知る地知る」ではないが、絶対性もそうした倫理的規制力としての意味を持つのなら宗教の 存在は否定すべきものではない。問題はそれが悪用され得るということ。宗教は一つの思想でしかない。その両刃をよく理解し、宗教が世界平和の ために役立っていく道を、我々は模索するべきであろう。                                                    
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