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心と体の同一視 アジサイの広場
横浜太郎あわか高1

 「心」と「体」、「神経(精神)」と「肉体」を、我々は別個のものとして捉えがちである。別個のものであるから、我々はそれぞれの代用品と
してあらゆるものを考え出し、商品化し、あるいは実用化してきた。しかし本当に、この2つのものは別々のものなのだろうか。  

 例えば、いま目の前で大人の男二人が殴りあいの喧嘩をはじめたとしよう。現在自分は傍観者でその二人に対して何の働きもしていない。しかし
その二人がだんだんエスカレートし、このままではどちらかがどちらかを殺してしまう、という事態になったとしたら。恐らく多くの人は「仲裁に はいる」というのではないだろうか。しかし、もしかしたら仲裁にはいったことで、今度は自分に火の粉が降りかかってくるかもしれないのだ。結 局、そういうことを考え「傍観者」でありつづける人が少なくない。つまり、「仲裁にはいる」という心はあるのだけれども、二人を止められるだ けの力、すなわち肉体が伴わなければ話にならないのである。  

 逆にいえば、肉体だけあったとしても心がなければ同様なのである。例えば、せっせとトレーニングをして肉体を向上させても、それを「暴力」
というもので使ってしまってはなんにもならない。  

 「人間が幸福だと思う生き方には極端に分けて2つある。肉体を苦しめて欲望を抑える禁欲主義と、欲望のあるがままに進んで楽しもうという享
楽主義。しかし、どちらか一方に固執する態度こそ、真の幸福を疎外するものである。」釈迦はこのように述べている。心と体を同一のものとして 考える生きかたこそ  

 
                                                 
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