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清書:働きは二つある アジサイの広場
日本太郎あねひ中1 私たちが日常、ことばを使っているときは、普通表される内容がまずあって、それを盛って運ぶ手段としてことばがあるというふうに考えている。 私たちの関心はもっぱらこの内容のほうにあるわけで、それを運ぶ仲介役としてのことばが入っていても、ことばそのものにはあまり注意を払わな い。ことばというのはあるようでないようなもの、存在しながら、存在していないような、何か透明になってしまっているような感じがするのでは  

 普通の人が、日常的な経験を日常的なことばで表現して満足しているのに対して、「詩人」と呼ばれるような人たちは、日常的な経験を超える経
験をもつ。そして、それを表そうとすると、もはや日常のことばの使い方では不十分なはずである。そこで、どうしても、日常のことばの枠を超え るということが必要になってくるのである。  

 僕は、この作者の言いたことは、言葉の働きは二つあるということだとおもう。僕はこの意見に賛成だ。
 

 理由は、意味が無い言葉でも、意味があることがあるからだ。
 

 例えば、ギャグ等がわかりやすい例だと思う。『布団が吹っ飛んだ』『かっぱがかっぱらった』等、意味がないけれども、おもしろいと言う意味
がある。(おもしろくない(‥;))  

 確かに、おもしろいという意味は、意味不明だという言い方もできるけれど、意味になっているのではないかと思う。
 

 僕は、そのことをよく知った(つもり?)なのでその働きを、活用して、みんなを楽しませていきたいと思う。
                                             
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