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ボランティア アジサイの広場
あおき高3 課題文:  

 好きなこととして、「善行」をしたい人がいる。この人たちの一番困る事は、何しろ善いことをしていると思っているため、近所迷惑についての
自覚が薄いことである。  

 一例をあげてみると、老人ホームにやってくるボランティアの人が居る。やってくると、老人にやたら親切にする。老人の方もやはり誰かに甘え
てみたいものだから、何やかやと要求する。それに応じていると、老人も嬉しくなって、平素はできないことまでする。  

 これは確かに素晴らしいことである。しかも、この様な行為を、この人は無償でやっているのだから、ますますそれは「善行」と言うべきである
。しかし、こんな人がたまにきてくれると、施設の人たちが後で苦労するこのになる。  

 甘える事の味を覚えた老人は、次の日になると、今まで自分でしていたことまでしなくなって、他人に頼ろうとする。施設にいる人たちは,それ
にいちいち応じて居られないし、やはり老人と言っても出来る限りは自立的に生きて欲しいものだ。  

 時にはこの老人が、ボランティアの誰それさんは優しい人だけど、ここの施設の人は冷たい人ばかりだ、などと言い出すかも知れない。こうなる
と施設の人は面白くない、。そこで、ボランティアの人が次に来たときは、あまり歓迎しない。そこで、「あれっ」と気がついて施設の人と話し合 うようなボランティアは、本当に素晴らしい人だ。しかし、一般に「善行」は他人の気持ちに居ノーマークの人がおおいので、そのまま平気でやっ てくる。と言っても、ものごとには限度があって、施設側から急に来所を拒まれたり、板ばさみになってきた老人が急に無愛想になってきたり、と かの破局を迎える.  

 こんなときに、せっかくの善意で行ってやっているのに何だあの施設は,というので、そこをやめて、他の所にボランティアに行く,というよう
な渡り鳥的善行を繰り返している人もある。  

 しかし、本当に善を行いたいのだったら、「微に入り細にわたって行わねばならない」のである。施設の人の不機嫌を感じ取ったら,それについ
て考えてみる必要がある。老人が、あれをして欲しいこれをして欲しいと言ったとき、それにすぐ応じることが、本当に意味あることか、と考えて みる必要がある。それらのことをひとつひとつ取り上げ、考えてゆかないと、善が善にならないどころか、有害なことにさえなってくる。・・…中略  

 微に入り細にわたるような面倒なことはしたくない。ともかく善意でやっているのだから、と言う人は、それは自分が好きでやっているだけのこ
とで、賞賛に値しないどころか、極めて近所迷惑なことをしているのだ、という自覚ぐらいは持って欲しいと思う。ボランティア活動というものは 、余程気をつけてやらないと、逆効果を生ぜしめたりするものなのである。  

 それが嫌な人は、微に入り細にわたってやって頂きたい。一旦それをはじめると、善を行うことがどんなに難しいことであるかがわかることであ
ろう。自分では善と思っていても、本当はどうなのかはわからないと思えてくる。そうなってくると、善人に共通する不愉快な傲慢さが少しずつ消 えてくる。善と悪とかいうことよりも、自分の好きなことをさせて頂いている、ということが実感されてくる。「神は細部に宿り給う」というワー ルブルクの言葉も、こんなことに関連しているのだろう。  

  ☆こんばんは。遅くなりました。課題文が長いですが、今回はボランティアについてです。 問1:筆者の考えを200字以内で要約せよ。
 

 問2:あなたの考えを400字以内でまとめよ。 です。とても短いので、例が挙げられませんでした。と、ボランティアを薦めるどころか、少
し否定的なものになってしまったような気がします。 1:  

 ボランティアとは、基本的に困っている人の為に無償でする善行のことである。しかし、善意でやっているという傲慢さが消えず、人の気持ちに
ノーマークでやってきて、問題を起こす事も多い。 だからこそ、ボランティアをする時は自分の好きなことをさせて頂いていることを実感出来る 様、微に入り細にわたって考えて、十分気をつけてやらなければいけない。   

 2: 我々は、誰かの為に何かをしてやった時、必ずと言っていいほどそれに対する自負心と満足感を持つ。それが例え、お年よりに席を譲る、
という些細な事であっても“自分はしてやった”という勝手な思い込みからその日は気分よく過ごせるのである。 そう考えると、ボランティアと は娯楽の一種の様に思える。ボランティアの場とは、自分の為に人に親切にし、自分の為に素直に喜ぶことの出来る認められた機関であるからだ。 仕事を楽しくするのはいい。しかし、それが遊びとなってしまう所に、筆者の述べる様なボランティアの落とし穴が出来てしまうのだ。  

 我々が滅私奉公を喜ぶきらいがあるのは事実である。そして、それが無料であるからこそ満足感のみが積もり、その中に個人の我侭が生じるので
ある。確かに、奉仕する心はいいことかもしれない。しかし、無料であるからこそ“ただでやってるんだ”という思いが先立ち、周りのことにまで 配慮が行き届かないのではなかろうか。そして、頼む側も文句を言いづらくなってしまうのである。だから、私はボランティアとは気持ちだけでも 支払うべきではないかと考えるのである。                               
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