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義務としての共生 アジサイの広場
横浜太郎あわか高1

 歴史上、他者を排除するという動きは数多くある。他者というのは、何も人間だけに限ったことではなく、動物や植物、思想、信念なども含んで
いる。それは、人間の本能的な攻撃性、それに伴う欲によるところであるのは明白である。聞くところによると、無意味な争い、つまり殺し合いを するのは人間だけだという。そのような殺し合いができるというのも、全体として人間が万物の長になったという自意識過剰からくる高慢な思い込 みによるものが大きく、さらに小さな単位として自己が優位に立ちたいという、救いようもない欲気からくるものである。それはもう、人種差別と いうものではなく、共倒れになることは必至である。その、多民族排除の根底にあるものは、「彼らにはこんなものがない、しかし自分達にはある 」というある種の自己顕示欲の表れであり、歴史上、そのような争いが数多くあったのは事実であろう。  

 この、他者排除の考え、すなわち自己中心の考えの横行によって、それまでの人間の能力が極端に少なくなってしまったというところもあると思
う。例えば、天変地異の前兆として動物が異常な行動をとるという話を良く聞く。これも、単に鯰などしか持っていない能力ではなく、もともとは 人類もこのような能力を持っていたと思う。しかし、自然と触れ合うことが少なくなり、自然をコントロールできる、果ては地球の運命はすべて人 間が握っているなどという考えが進むにつれ、そういう能力が隠れてしまったのではないか。また、イルカやクジラなど、高等生物と呼ばれている ものたちのほとんどは無意味な争いを起こさず、自分の置かれている状況を的確に判断し、適応のための措置をとる、すなわち共生の道をとるとい う。そういう意味で、我々は彼等よりも高等な生物といえるのだろうか。  

 今、アメリカがテロリストを血眼になって探している。もちろん、あのテロが良いなどという事は決してなく、またその後に起きた炭疽菌事件も
、誰がやっているのであれテロ行為に相違ない。しかし、いくらテロが悪いからといって、テロに関係する者たちを片っ端から処刑(あるいは“殺 して”)いったら、そちらのほうも憎むべき悪となる。大切なのは、許すことができず、憎んで憎んで相手を殺すことよりも、自他享楽の道を模索 することではないだろうか。我々はこのことを、「人間が、人間よりも下等な生物だと思い込んでいる」ものたちから学び取らなければならない。  

 
                                                   
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