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徳と知性 アジサイの広場
稔央いつや

 我々は知性というものについて磨けば磨くほど良いもので、その効用は量に比例するものだと漠然と考えている。それが違和感なく受け入れられ
ているのは子供のころから身近な存在であり続けた学力試験が知性のあり方を物語ってきたからではないだろうか。つまり、知識の保有量が増えれ ば増えるほどそれが数字に現れて成果として報いられる。そして知性を尊重する日本の風土もまた知識偏重主義に影響を及ぼしている。そしてそれ 自身善とされる知性は徳と混同されやすいのではないだろうか。  

 政治家の統治者としての資質が問題にされているが、だからといって政治学の学者が上に立ったのではいくら彼の知性が優れていても問題の解決
にならないことは誰もが直感的に感じ取る。知性はリーダーシップ、つまり徳の欠如を補えないのである。それは人間の徳について語られるときに

「器」という言葉が使われることが物語っている。「あの人は器が大きい」と言う時、それが指すのは人間としての度量の広さであって知性につい
てではない。例えば「あの人は賢いから器がある」という言い方には違和感を覚える。「器」は文字通り何かを注ぎ込むものであるが、それは決し て容積を超えた量を収めることはできない。器に入りきらないほどの知性をもてあましている者はその知性ゆえに害を及ぼすのである。  

 徳と知のバランスを重要視する教育の成功例はイギリスの上位階級の教育で重視されるノブレス・オブリージという概念が根付いていることに見
られる。高等教育を受ける恩恵に与かったものはリーダーとしての資質つまり徳を身につけるのが義務であるという考え方である。実際、第一次世 界大戦時ケンブリッジやオックスフォードの学生は自ら進んで前線に赴いて戦死を遂げた。ケンブリッジでは戦時中学生の数が十分の一に減り、ノ ーベル賞受賞を確実視されていた物理学の若手研究者が彼自身配属を希望した激戦地で戦死した。我々日本人からすれば理解しがたい彼らの行動も 中高の頃から高貴な義務の精神を叩き込まれている彼らにとっては当然のことである。  

 日本での問題は、学校で徳を重んじる風潮がないことである。授業の中でカリキュラムの一部として取り扱われることはあってもせいぜいそれは
古典としての意味付けを与えられるにとどまり、日常生活で直ちに実践されるべきものではない。生徒にとって徳とは、無味乾燥で、試験に備えて 覚えるべき一項目に過ぎない。カリキュラムやそれに沿って教える教師もそのような徳の位置付けを容認している。徳が知性に従属することを教育 システムが無言のうちに教えているのだ。生徒たちに嫌われる説教じみた徳の説明より徳を備えた人間がいて生きた教材を示せればそれに越したこ とはない。その役割を教師が果たすのは難しいだろうが、しかし少なくとも徳を持たなければならないという義務感を持たせることは教育によって  

 
                                                 
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