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座敷犬
アジサイの広場
日本太郎あねひ中1
私は二十年ほど前から、人間は自らを飼育し、家畜化――自己家畜化していると述べ続けている。まず人間は、人間自身を飼育しているのではない
か。ヒトを生物の一種とみなした場合、人間自身がつくった社会システムに依存して暮らしている点からである。飼育動物を例にして考えてみると
、比較生態学的には否定する論拠はない。飼育動物はそれなりにフリーに動いてはいるものの、少し大きな目で見ると人工的につくった場の中でフ
リーなのにすぎない。
 


 人間は自らを自らで飼育し、馴化している。自己飼育、自己馴化である。人類学の教科書には、こうした説明が載せられているものがある。一般
には、これは否定的で比喩的にしかとらえられない。だれも自ら好んで飼育され、ならされていくことなどないと感ずるからである。だが、私が 
これにこだわったのは、ここでいう自己とは個々の人間の行為の上での自己ではなく、ものごとの自己発展の上での自己である。人間というものの
あり方が、自ら飼育していくという意味である。では飼育というのをどう考えるのかと問われれば、人類学上の定義はともかくも、動物にとっては
食物を供給されることから始まる。動物が生きることは、まず生態学的・生物学的に食物をとることに尽きる。動物の生活すべては、食物をとるこ
とが中心に営まれている。その成果にもとづいて繁殖がなされる。
 


 飼育とは、食物を供給され、さらに生活空間や場も与えられるといってよい。しかし、飼いならすというと通常、餌付けから始まるのでわかるよ
うに、食物を自力でとらずに済む依存の暮らしが基盤である。子供の時期は食物を供給されるが、自立するためには食物依存を断たねばならない。
ライオンのような強力な捕食獣にとっても、離乳の後、自力で獲物をうまくとれるようになるまで、生き続けることはとても難しい。それだけに食
物を供給されることは、まるで全生活の面倒を見てもらうのに等しい。
 


 人間として生活をしているヒトとしては、食物のとり方は食事だけではない。獲物をとる動物の場合になぞらえれば、漁業や農業その他、食物生
産のすべてを個人でやらねばならなくなる。別の言い方をすれば、ヒトは社会システムに参加することによって、社会的に食物を供給されている。
社会的に飼育されているとも言える。社会システムにせよ、食料生産のしくみもまた、人間がつくっているので、自己飼育・自己馴化である。
 


 現代の青年や子供は、座敷イヌと類似している。自己家畜化が、特殊な条件下で自己ペット化に至ったものと言えよう。自己ペット化は、その自
己家畜化の管理・保護と人工化がより進んだ現代的な先進国での特殊な状態だとみなせる。自己ペット化の場合には、自己家畜化のような論理にも
とづいたものであるよりも、状況を示す表現に力点が置かれた言い方である。
 


 僕は、この文章の言っていることは、正しいと思う。
 


 第一の理由は、働かないと、食べていけないとよく言うが、働くと言うことは、社会システムに依存していると言うことである。人間は、社会シ
ステムのおかげで生きているとも言える。
 


 第二の理由は、児童虐待がこのごろよく起こっている。児童を殴って言うことを聞かせる。このことが、筆者の言う座敷犬に類似していると言う
ことであろう。
 


 確かに、筆者の言っていることと合わないこともあるだろうが、僕は、殆どが合っていると思う。座敷犬の少ない社会にしていきたいと思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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