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情報化社会の結末
アジサイの広場
横浜太郎あわか高1


 現在我々は、さまざまな情報を、さまざまな形で手にいれることができる。最近は、情報通信技術の革新的飛躍で、膨大な情報が瞬時に得られる
ようになった。また、世界的規模の情報ネットワークの確立によって、世界中ほぼどこからでもその情報を手に入れることができる。このように、
我々を取り巻く情報社会は格段に進歩した。それによって我々の日常に、どのような変化がおきたのだろうか。
 


 例えば近年、世界的に携帯電話の普及が著しい。日本もご多分にもれず、特に若年層への広がりは周知の通りであろう。確かに、携帯電話によっ
て日本の情報ネットワークは恐ろしいほどに広がった。しかしそれによって、確かに便利になったとは思うが、飛躍的に進歩した、あるいは携帯電
話でなければならないようなものが多くあるであろうか。自分の知る限り、答えは否である。メールについても同様で、もちろんその便利さは自分
もよく理解しているので、頭から必要なしとは言わないが、なければないで生活できないということはない。もっともこの、「生活できないという
ことはない=それがなくても生活できる」とは全ての情報網に共通の事柄で、決して携帯電話、あるいはメールだけに限っているのではない。しか
し結局のところ、情報技術の発達によって、根本的な人間の生活(衣食住)が変化したかというと、今のところそれほど変わってはいないのではな
 


 情報化社会が進歩したからといって、人間性が飛躍的に進歩したという事実はほとんどないと思う。確かに情報化社会は、我々に知識をくれた。
しかしその代価として、経験や感情、思考などが奪われていってしまっているのではないだろうか。また、どっぷりと自分の世界に浸る、そんなこ
とが無意味、もしくはおかしいことと捕らえられるようになってしまったのではないか。
 


 アインシュタインが「空想は知識よりも重要である」といったように、自分で、自分の世界を築き上げていくということが非常に大事であると思
う。そういう意味で、今のこの情報化社会は異常であると思う。もしこのまま続けていくのであれば、一人の人間が、一端末として扱われるように
なってしまう、そんな不安に駆られている。
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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