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自己同一性
アジサイの広場
日本太郎あねひ中1


 衰弱したアイディンティティのぎりぎりの補強、それを個人レベル、感覚レベルでみればたぶん「清潔願望」になる。
じぶんがだれかということがよくわからなくなるときなどに、ぼくらはじぶんになじみのないものにちょっとでも接触することをすごく怖がる。じ
ぶんのなかになんの根拠もないまま、じぶんの同一性を確保しようとするなら、~ではないというかたちで、じぶんを規定するしかない。 ぼくら
はじぶんの存在をじぶんという閉じられた領域のなかに確認することはできない。他者という鏡がないと、ぼくらはじぶん自身にすらなれない。
 


 僕は、~ではない。というようにで、自分の自己同一性を確立させずに、他者との関係を持つ事で、自己同一性を確立させない方がいいと思った
。理由は二つある。
 


 第一の理由は、他者との関係を持つ事で 自己同一性を確認する事ができなければ、たぶんすねてしまうだろう。大人になると、他人から認めら
れなくとも、自分を持つ事ができる。子供のときも、親から世話をされ認められ自分を確信する事ができる。しかし、中学生や高校生になると、ち
ょうど自分が成長している最中なので、一番「自分」を持ちにくくなる。その結果、色々な事をして、自分に注意を向けさして、自分で自分の自己
同一性を確立させようとする。最近問題となっている少年がおこす犯罪などは、自己同一性を確立させようとして、おこっている事なのであるかも
 


 第二の理由は、他人との関係のなかで、自己同一性を確立させようとすると、自分が成長できることがあるからである。例えばスポーツなどで、
みんなから期待されて応援されてる時に、その期待にこたえようと頑張り、それがうまくいったとき、「やった!できたぞ」と思い、自分の中に新
しい自信が生まれてくる。自信が生まれると失敗を恐れることが減り、思い切りいろいろなプレイができるようになる。それに、次の新しい目標を
作り自分を高めていける。こういうことからも他者との関係のなかで自分を高めるのは大切な事だと思う。
 


 確かに「嫌いだ。」とか、「なんとかじゃない。」と言った方が、楽に自己同一性を確立する事ができる。だが、そういう事をすると自分の近く
から本当の友達と呼べるような、他者がいなくなる。だから僕は、なんとかではない。というように、自分の自己同一性を確立させないで、他者と
のいろいろな関係のなかで自己同一性を確立させていったほうが自分にもいいと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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