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長文真っ向否定します! アジサイ の広場
惇平 あはえ 高1

 美とは本来自然の造化にいよる創造物の性質を言い表わす言葉であり、人間はこの美に導かれ創作活動を営んだ。自然の美は美醜の対立を超越したところ
にあり、どんなものそのままの性質において美しいのに対し、人間の創型美はその人が持つ意識や欲望や迷妄、壊疑などがどうしても含まれてしまい、相対 性の範囲内にとどまってしまう。すると人は人間の作り出す美にしか関心を示さず、視界に入れなくなってしまう。自ら美の次元を低い段階に限定する状態 にしてしまったのだ。  

 そもそも美とは、今までなかった環境と向かい合って、自分がそれに思うものがあって初めて感じるものだと自分は思う。いつも同じ音楽を聴いていたら
飽きて何も感じなくなってしまうように、人は今までなかった、他とは違った部分を意識して美を作り、そして求めてきたのだ。  

 確かに自然の美は素晴らしいと思う。自分もよく夕焼の綺麗なみはらしの良い場所にいく事があるが、そこでは毎回毎回ちがった雲の形や光のさし具合が
見られる。ここに自然の良さがあるといっても良いと思う。しかし、(要約と意見異なるが・・・)曇りのじっとりとした日に気分が晴れないのと同じように、 自然にも美とは言えない面があることを私たちは認めなければならないのだ。  

 今となっては、この自然の本来の美を見直されている(要約のように)しかしそれは昔からしてみれば当り前の話であり、そのうえで違った美の刺激がほ
しくなった人間が、音楽を作り、絵を描いてきたのだと思う(ここでも要約と意見異なるけど・・・)人間が『自ら美の次元を低い段階に限定する状態にしてし まった』といいきるには語弊があると思う。要約には『人間の美には意識や欲望や迷妄、壊疑などがどうしても含まれてしまう』とは入れたが、それは人間 の作る美の良いところだとも言える。  

 例えば音楽には怒りや不安や安らぎ、闘争心を率直に感じることができる。しかし、自然にはそこまでストレートに特定の感情を求めることができない。
その美を見たり聞いたりする人が必要なときに求める美を感じることができれば、それで充分なのではないかと思う。  

 
                                               
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