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人間という生き物 アジサイ の広場
ノッポ いえは 高3 ニュートンが集大成したようなテクノロジー科学は単に思想上の成果となっただけではなく、政治的・社会的にも支持を取得する事ができた。テクノロジー 科学は「イデオロギー」として近代的政体に取り込まれた。デカルトは人間を機械としボップスは国家を機械と見た。しかし私たちは、テクノロジー科学を 取り込み米国のような個人を中心とした社会が本当に住みやすいのであろうか。  

 私の学校では、毎年6月の半ばに音楽祭という行事が行われる。内容は、クラスごとに曲に合わせて自分たちで作ったダンスを踊るのと、合唱を一曲歌うの
だが、この行事に懸ける生徒の情熱は半端なものではない。限られた時間の中で、テストが近くても朝練習に少ない昼休みを使っての昼練習、薄暗くなるま での放課後練習を行う。クラスメートの中にはダンスが苦手な子、歌うのが嫌いな子など最初から全員がこの行事を快く思っているわけではない。練習をし ていく上でも一回でうまく出来る人と何度やってもうまくいかない人がいる。けれど、辛い練習を重ねて全員の息が揃って踊れた時は、どんな人でも充実感 を味わい笑顔になる。個人主義の立場から考えると、この行事は全員に同じ物を押しつけていると写るのかもしれないが、出来る子が出来ない子に教え、そ れぞれ自然に役割分担がされ、本番の日までにクラスの絆が少しづつ深まっていき、達成感が全員に伴うことは事実である。  

 司法の中でも、人を一人殺したとしてもそれぞれ刑の重さは違う。過失致死の場合と無差別テロとでは、罪の重さには大きな差が出る。その事件の裏にあ
る背景や人間の感情により、事実は一つであるが総ては異なっているのである。それは、人間には感情があるからではないか。人は、唯一感情のある動物で あり、理性と感情のバランスを取って行動している。  

 ボップスやロック、ルソーのおかげで民主主義が発達し多くの人々に評価されているが、彼らも今のような時代がくる事は予想もしなかったのではないだ
ろうか。彼らが活躍した時代は、絶対王政であり人々には現在のような精神の自由や身体の自由は確立されていなかった。彼らがこの21世紀に生きていたと したら、当時と同じ考えであっただろうか。そして、17世紀の思想家の考えを現在に全てあてはめる事もできないのではないか。すべてのものは時代と共に 進化し退化もする。人間は理性のみで行動する事は不可能である。個性を尊重する為に完全な個人主義を取り入れる事も一方的であり、事実のみを見て取り 決めをする事も単一的である。その時々の現状に合わせて行動する事が今求められているのである。そして、人間には理性と感情がある事を私たちそれぞれ が理解しなくてはならない。  

 
                                                 
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