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美を極める アジサイの広場
たこたここむ高1

 美とは、本来、自然の造化による創造物の性質を言い表す言葉である。例えば、水がゆらゆらゆらめく景色、あゝ美しい。
 

 人間はこの美に惹かれ、あやかろうとして、創作活動を営んだ。自然の美の本質は、美醜の対立を超越したところにある。しかし町中にあるオブジェや美
術館で展示されている絵などの人間の造形美は、人間が持つところの意識や欲望や迷妄や懐疑、その他もろもろの執着心の規制を、どうして設けざるを得ない。「よく見てもらいたい・高価で売れるかどうか」などの欲望が含まれている分、美しくない。それにくらべて自然美、例えば花は「よく見てもらいたい・高価で売れるかどうか」なんて考えもなくただ咲き乱れる。 

 規制され限定された美、人間の個性の範囲の美、特殊な性質の美。それらはいずれも醜の対立概念としての美にとどまって、自然美の超越性にまで到達す
る事が困難なのである。 

 この前とあるレストランにいった時、「母の日にママの絵を描こう」みたいな企画で2~6歳程度の幼い子供たちに母親の絵を描いてもらい、その作品を
壁に展示していた。 

 そのとき、一緒にいた大吉くん(言葉の森に生息)はなにがなんだかわからないようなグチャグチャな絵を、たこ(言葉の森に生息)はとりあえず人だと
分かる絵を気に入ったと言った。まっちゃん(言葉の森に生息)も「どちらもかわいくていい」という意見。展示された絵のなかにはとても高校1年生でも描けないような母親の絵が7才児の作品として展示されていたのだが3人ともぐちゃぐちゃの絵を気に入ったのだ。 

 それは、綺麗に描かれた母の絵は絶対に「『あら、この子7歳とは思えないほど綺麗な絵ね。』などいわれたい、目立ちたい」という欲望の元で母親(も
しくは父親)が描いた絵だと言う事があからさまにわかる絵だったので、綺麗にかいたつもりが逆に醜く見えたからである。それにくらべ、ぐちゃぐちゃな絵は大好きなママの絵を描いたなんの欲望もない絵なので美しいと感じるのである。 

 人間性の認識を目途とする近代の成行は、人間の作り出す美にしか関心を示さず、視界に入れなくなってしまった。しかし、私たちは自然がもともと持つ
美というものに、もっと目を向けていく必要がある。                       
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