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会話 アジサイの広場
由希子あとえ中2

 島国言語の特色のひとつ、相手に対する思いやりが行き届いていることである。ヨーロッパの言語では、われとなんじ、自と他の対立関係において言語活
動が考えられるが、島国言語の日本語ではそういう対立関係はあまり発達しない。そのかわり第一人称にいろいろな形態ができている。島国言語のもうひとつの特質は、話の通じがたいへんよいということである。われわれはだれでもある場面では通人としての言語活動をしているのである。その典型は家族間の会話である。省略の多い、要点のみをおさえた言葉のやりとりをしていて、お互いに理解し合っている。通人同士だからである。日本では、普通は家族の間で行われるような言語活動の様式が社会に広く認められるのである。日本語は島国言語である。島国言語の社会で冗語性が少し多くなると、すぐ、くどいとかうるさいとか、野暮というような消極的反応を誘発する。大陸言語の社会では冗語性をあまりすくなくすると、親密な関係の人ならともかく、相手に誤解されたり、了解不能を訴えられたりするから、ていねいな表現をしなくてはならない。このように、大陸言語に比べると、日本語は冗語性が少ないと思う。 

 私は、日本の互いにあいてを思いやって話をするということはいいと思う。なぜなら、相手の気持ちをかんがえて話さないと相手も傷つくし、自分も友達
に嫌われるからだ。 

 昔、わたしの友達になんでもハキハキ言う女の子がいた。始めの方は、この子なんだかさっぱりしてていいなと思っていた。しかし、人がコンプレックス
に思っていることまでズバって言ってしまうくせがあって、友達とよくトラブルを起こしていた。そんなことがあって、よくその子の悪口が聞こえてきた。私も、その子は好きではなかった。そして、みんなうんざりしてきて、その子は仲間はずれになってしまった。仲間はずれにされて反省したのか、その子は改心して、人のことをよく考えるとてもいい人になった。私は、それを見てやっぱり相手の気持ちは考えるべきだと思った。 

 しかし、相手の気持ちを考えるだけではいけないと思う。ハッキリ物事は言うべきだと思う。なぜなら、漫才師とかはコンプレックスを売り物にしている
ことが多いので、相手の気持ちをかんがえてばかりじゃおもしろい漫才とかはできないと思うからだ。 

 私は、漫才とか吉本とか大好きだ。よくあんなおもしろいことを思いつくなあと思う。しかし、私がおもしろいと思う漫才は、相手のコンプレックスにつ
けこんでいるような気がする。そういうことがあって物事はハッキリ言うことがあってもいいと思う。 

 私は、話すと言うことは、思いやる気持ちやハッキリ言うだけではいけないと思った。相手の気持ちをかんがえて話さなければいけないときはおもいやる
、きちんと伝えて発言しなければいけないときは発言すると言う風に、時と場合によって使うべきだと思う。「悪いことそのものがあるのではない。時と場合によって悪いことがあるのである。」と言う名言のように、時と場合によってその言葉が悪くなってしまうことがある。だから、私は、何事も時と場合によって使い分けるべきだと思う。                        
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