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清書:さわりじゃダメなの? アジサイ の広場
横浜太郎 あわか 高1

 本場クラシック音楽は、何十分も指揮者を汗だくにさせる。僕の持っているCDに入っているクラシック音楽は、長くてもせいぜい10分。クラシックを聞き
始めたころはCDを信じ、「クラシック音楽の演奏時間は長いというけれど、長くたってたった十数分しかやらないじゃないか。ウハハハハ」とタカをくくっ ていたのだが、実際に“聞く”ようになると、とんでもない間違いだということに気が付いた。よくCDケースを見てみると「ダレダレ・○○(曲名) 第△楽章 」と書いてある。ごく一般的な、CDショップで¥500位のsellマークのついたCDは、結局、こういう“さわり”の部分しか入れていないということに気が付 いた。では、さわりの部分だけ入れているのではダメなのだろうか。  

 さわりといえば、先日「BEATLES 1」が発売され、大変な売れ行きで話題になった。特に若者が購入するのが目立ったらしく、小学4年生のときからのB
eatlesファンとしては、話し相手が増えてよかったな~、っていう話はいいとして、同じくBeatlesファンの友人と「1」について話をしている中でこんな 会話があった。  

 僕「(BEATLES)1、かなり売れてるらしいね。話し相手が増えてよかったよ。」
 

 友人Y「あれって、1位になったのだけ入っているんでしょう?」
 

 僕「そうらしいね。だから“1”なんでしょう!(笑)」
 

 Y「でもさ、1位ってことは、俺の好きな曲ほとんど入ってないじゃん!」(Yはマイナーな曲が好き)
 

 僕「だからさ、あれは結局、Beatlesの“さわり”でしかないんじゃない?」
 

 僕らの話の結論としては、「1」は“さわり”でしかないということになった。しかし、たとえ「1」がさわりでしかなかったとしてもそれが出発点、つ
まり入り口になることはあると思う。今まで、ビートルズなんて、名前も知らなかった人が、「1」の発売でその名を知り、聞いてみて、「へ~、ビートル ズって結構いいね」と思い、興味が湧いてくるということもあるはずだ。もしそこで「“1”だけ聞いてBeatlesファンを語ってもらっちゃ、Beatlesファン の名が廃る」とかいっているようであれば、それは排他以外の何ものでもない。良いものは共有すべきだと思う。  

 おもちゃ作家で「なぞなぞ工房」主人、『杉山 亮』の「世界には無数の大通りと横丁があるわけで、入っていかなくとも一度入り口から中をのぞきこん
でおくという手はありそうです」という名言がある。僕の勝手な解釈で申し訳ないが、初めてのことなのに、なにも律儀に最初から最後まですべて体験する 必要はないのだと思う。よく、「おまえは何をするにも、道具から入るやつだな」と叱られることがあるが、専門にするかどうかもわからぬうちから全てを 見ようとしても、結局途中で投げ出したり挫折したりしてしまうと思う。クラシック音楽で、汗だくになっている指揮者を見るのは、さわりをみて、十分に 興味が沸いてからでも遅くはないだろう。  

 
                                       
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